きのうは夜に日記が書けない予感があったのでTwitter やマストドンにあれこれと書いておいて、それをコピペするだけで済ませた。『プルーストを読む生活』のころの日記は、毎日厳密に日付変更線を越えないように更新していたから日中思いついた時にちょこちょこと書き溜め、夜はそれらをまとめる程度だったのだが、場所をnote からはてなブログ、そして自前のホームページに移していくうちにどうでもよくなってきて、この三年くらいは平気で日付を越える。それもあって日中はぼけっと過ごし、日記は寝る前に一気に書くスタイルに落ち着いていった。そうすると夜遅くまであれこれと気忙しそうな日はお風呂に入ったらすぐに寝たいから日記が面倒になる。きのうはそういう感じがあったし、じっさいそうなった。おとといに入稿したデータには不備もなく──内容としてはまだまだ修正点もあるのだが──ぶじ作業に入ってもらえそうだった。今回は蟹の親子さんに教えてもらった印刷所にお願いする。『浜へ行く』を読みながら入稿の日付と出荷の日付を確認し、サンプルが到着するのは来週の水曜とか木曜かな、などと見当をつけるのも楽しい。二冊目以降の日記本は、以前の日記本を制作している過程が書かれるからいいな、と思う。日記のなかに、いま書かれつつある日記と、本の形に象られつつある日記が共立する。さらに日記は過去の日記を思い出させるものだから、日記はつねにいつかの日記を引き連れている。そのように書けば書くほど書かれたものの背後にかつて書かれたり書かれなかったりしたものの気配が濃厚に漂ってくるような日記はいい日記だ。日々が断片であるからといって断絶していることはありえない。過去も未来もつねに思い出されてしまうのが日記だ。
図書館で上限二〇冊まで借りていたのを返し、十六冊くらい借り戻した。必要があって読み返したいものや、ずっと寝かせていた──積んでいた、という言い方があまり好きではないかもしれない──何冊かを自分の本棚引っ張り出してきて、これらをまずは読むべきだよなあ、と思うが、図書館の本も読みたい。どうにも本は同時に何冊も読めたりしないから不便で愛おしい。一冊ずつしか関係できない。かけがえのないものというのは複数あって、しかしかけがえのない瞬間瞬間はひとつずつしかありえない。今この時間、僕にとってかけがえのないものは、たしかにたったひとつなのだ。そんなチャラい理屈を捏ねくりまわしながら、アン・モロウ・リンドバーグ、植草甚一、松下竜一、吉田健一に四股をかける。
歯医者でマウスピースを受けとる。診察券を返してもらうとき、これでおしまいなのでまた何かあったらきてください、と言われる。歯医者でこんなにはっきりと完了を告げられたのははじめてでなんだか誇らしかった。だいたい途中でやめてしまっていた。それから夕飯の買い出しをして、早めの時間にポトフを作っておいてしまう。
この日三度目の外出。双子のライオン堂に『町でいちばんの素人』を納品。奥のスペースでサイン本を作らせてもらう。ちょうど『プルーストを読む生活』がH.A.B から届いていて、それにもサインする。ライオン堂のライオンの絵を描いた。あれこれと雑談し、それから店内を見る。ずっと探していた『フラワーズ・カンフー』の、しかもサイン本を見つけてしまったのでごきげん。あとは保坂和志の文庫を一冊。
来週ぶんの録音をはやめに済ませてしまう。『ちいかわ』について話しているとどうにも感情的になってしまう。この世への憤りが『ちいかわ』を媒介にして迸る。僕は怒っているな。いつだって。
