やりたいことだけやる、好きなことを仕事にして毎日を創造的に生きていく。そういう生き方への切実な憧れのようなものが、僕はどうも昔から弱かったように思う。いいなあ、という気持ちはある。楽しそうな様子を見せてくれるフリーランスや起業家の方々の自己演出を眩しく感じ、僕もああいうふうに知性や倫理をしなやかに貫徹させるような暮らしができたらなあ、とそわそわする。でも、それは子供のころに作文する夢のようなもので、どうも現実の必要というものにまでせりあがってこない。そうしなくてはいけない、というほどの切迫感をもって考えたことはほとんどない気がする。一日のうち自分の好きなようにできる時間を最大化したい、という欲望がどうにも締まらないのは、たぶん、体調が悪くて縦になるのも億劫みたいな日が多いから、自発的な用事だけで動物として必要なだけの運動量を捻出できそうにないという自覚が大きいように思う。僕は僕だけのために動くのが難しい。誰かにやる気を焚きつけられないとだるいし、やる気は無理でもやることを申し付けられないと動かない。そんなふうだから、平日の一日の大半を興味も喜びもない労働に割いてしまっても、そのために布団から這い出たり外に出られたりするのだからプラスにはなるのだ。通勤の二時間弱を読書に充てられるのも、事務所や路上で出くわすダサいマチズモや、現状維持への欲望の強固さにびっくりして思考が活性化するのも、ひとまず強いられて動き出すからだ。会社にいるあいだ僕は、早く帰りたいな、しか考えていないし、あれこれどうでもいいことを思いついては考えを進めていたりするのだが、いざぽっかりと空いた休みがあると、だらだらアニメや映画を浴びるように見て時間をドブに捨てることしかしていない。自分にとってどうでもいい用事に縛り付けられている時間が、僕だってしたいことがあるんだ、という思いを強化してくれるどころか僕の場合はおそらく生み出している。やりたくないことをしていないと、やりたいことが現れてこない。やりたいことだけやっていたら、僕はすぐにただ寝ていたいと考えだすだろうと思う。じっさいいま本を作っていて、これはやりたいことのはずなのだが、とにかく怖くて不安で面倒くさいからやりたくないと思う時間も多くあり、それでもやるのは日々の労働のつまらなさがあるからこそという感じがある。生活費のための労働にやりがいを何にも感じていないからこそ、しんどい思いができるということ自体がなにかしらの報酬になりうる。このしんどさが日銭を稼ぐために要請されているというふうになると、僕はおそらく二週間で発狂する。だから僕は好きなことだけで稼いでいくようなことをしたいと心底から思うことはできない。
というのは僕の生理に基づく判断だが、理論的にも、個人の特性や固有性みたいなものと、市場価値みたいなものとが密着している状況がどうしてもグロテスクであるというのもある。『現代経済学の直観的方法』が面白かったのは、資本主義というものを、文明の進歩の結果ではなくむしろ崩壊の結果なのだと喝破するところで、資本主義というのはもっとも野蛮で原始的な状態であり、易きに流れがちな人間社会をどうにか整序された状態に留める(=資本主義の全面的な進行を食い留める)ための仕組みを文明と呼ぶのだという態度だった。その人がその人であるということがそのまま価値になるというのは、人格という単位までもが資本として収奪の対象とされるという事態ではないだろうか。
自分の時間や力が誰かに不当に横取りされているというような感覚。それが僕にもあるが、僕はそうやって取られていくものを愚鈍に見送りながら、そうか、ここにはこんなにあったのか、とようやく気がついて自分のために楽しく使おうという発想がやってくる。ようはあまり優秀でもなければ察しもよくないのだと思う。しかしそうやってのんきに構えていると、誰かに流れ出すことでしか、自分のものだと思えるような時間や力は湧いてこないのではないかという考えもまたやってくるようなのだった。