2023.03.09

日記祭の情報解禁が正午とのことで、事前に作っておいた告知文を見直して、時間になったら投稿した。Twitter、Instagram、マストドン。だいたいの反応は前のふたつに集中する。告知の後はついついTwitterに張り付いてしまうが、べつにあとからまとめてみても反応の数は一緒なので、距離をおいたほうがいい。ア・ウオッチド・ポッチだ。わかっていても、こまめに見てしまうのだけど。

「英語の諺に」 と大浦がいった。

「こういうのがある。ア・ウオッチド・ポッド・ネバー・ボイルズ。見ている鍋の湯は沸かない、というんだ」

「なに? ウオッチノ・ポッチ?」

「そうじゃない、ア・ウオッチド・ポッチ。いや、違った。お前が変なこというから、こっちまでこんぐらかった」

庄野潤三『親子の時間』岡崎武志編(夏葉社) p.25-26

あたらしく本を作るたび、「誰にも求められていないものを作っているかもな」という不安、いや不安でもないな、「こんなものが誰かに届くんだろうか」と素朴に思う。それはけっこう心細いもので、告知に反応があるととーっても嬉しいし、また作っていけると思える。ありがとうございます。ありがとうございますって本当に思うもんなんだな、というのを自分でものを作って売ってみるとわかる。これは定型文なんかではないのだ。というか、紋切り型の文句にしか込められない真心というのがある。

自主制作における自分に内在的な「これは作る」という確信と、その成果物が誰かに届きうるという確信とは、まったく別のもので、ぜんぶひとりで作って売る本は(だいたいにおいて矛盾する)両者をどうにか調整するべきなのだが、僕はどうしても作るほうを優先して突っ走るところがある。身勝手な作る僕が「売れなかろうが知るかよ、おれはおれが信を置くことしかしないぜ」とコスト度外視で暴走し、売る僕が電卓を叩きながら「こんなもん売れるのかよ……」と頭を抱える。告知をするのは両者がまだせめぎ合っている段階でなされることが多いので、ここで反応をいただけると作る僕が「ほらみたことか」と言い、売る僕が安心する。たくさん反応があって、なんだか安心してしまう。粛々と本番の入稿データを磨いていく。今回はサンプルを作っていただけるから、こうして告知の段階で書影を出せる。これはかなりすごいことだ。これだけで告知の引きがぜんぜんちがう。

それはそれとして、日記祭のゲスト枠があまりに豪華で、僕はここにいていいのだろうか、と卑屈になりかけてる、というのは嘘で、僕は「僕なんかどうせ」みたいにいじけることがあまりない。「僕はこの程度だろう」という判断はある。そして「この程度」はだいたいにおいて過信であることのほうが多い。それでもなお、僕が今回ゲスト枠なのはかなり無茶なレベルでチヤホヤしていただいてる感じがある。やや気が引けるが、楽しみだし、僕は僕でしかあれないので、図々しく堂々と楽しむつもり。保坂さんに、態度がデカくていいね、と言われた──言われてない──ことが、けっこうずっと響いている。僕はそれでいいよな、やっぱり、とでもいうか。

知性を感じるお行儀の悪さ、気遣いのあるチャラさ、ものを知らない教養主義、物腰柔らかな不遜さ、そういうものを格好いいなあと思う。そうあれるように意識してる。

夜は蟹の親子さんと録音。先に告知を済ませて本題に集中しましょう、と日記祭の話をして、それから『浜へ行く』の感想を暑苦しくお伝えする。日記を起点にずいぶん豊かなおしゃべりがなされた気がする。録音を終えてからもしばらく話し込んでいて、とても楽しい。ポッドキャストを始めてから、録音を口実にこうして雑談できる相手がすこしずつやってきてくれて、僕はそれが嬉しい。他愛もない話、脈絡のない話を、ふたりのあいだで転がすようにしてずっと喋っていたい。改めてポッドキャストはいい遊び場だな、作ってよかったな、と思う。いま「思う」と書いて蟹の親子さんの「思いすぎ」という言葉が浮かぶ。

柿内正午(かきない・しょうご)会社員・文筆。楽しい読み書き。著書にプルーストを毎日読んで毎日書いた日記を本にした『プルーストを読む生活』、いち会社員としての平凡な思索をまとめた『会社員の哲学』など。Podcast「ポイエティークRADIO」も毎週月曜配信中。