『群れは意識をもつ』のなかにボブ・エルウッドという動物行動学者の実験について書かれている。ヤドカリのような節足動物は痛みを感じるのか、ということを確かめるために、エルウッドは痛みをこのように定義していった。刺激への反応は単なる反射である。反射は痛覚を経由せずに起こる身体反応であるから、これは痛みという感覚の証拠にはならない。それでは痛みとは何か。痛みとは与えられた刺激を「我慢すること」である。つまり、刺激にただ画一的に反応するのではなく、状況に応じて刺激に耐えるような行動が観測出来たら、それは痛みの存在を示していることになるだろう。
痛みとは客観と主観のはざまにあるものだ。他者の痛みをそのまま感覚することはできない。それでもそれがあることはわかる。痛みが主体というものを立ち上げるような記述がありふれているのも、このような内面と外面のあいだに痛みがあるからだ。エルウッドが痛みを観測可能な形に変換する鍵として「我慢」を発見した慧眼。「我慢」には受動と能動、モノとコトの共立がある。これこそ痛みの本質なのだと。内的な物を外的なものとして実験可能にする。その鮮やかさ。言葉はそのようなことを可能にする道具としてある。
言葉は嘘をつく道具であり、全面的に信頼するものでもないということが、つねに頭の片隅にある。道具はその使用がもたらした結果がすべてだから、話者や書き手の意図というのは関係ないんだよな。失言への対応の錯誤はここにある。それとは別に「そもそもろくに読めていない=受け手側が手渡された道具を使えていない」という問題もあって、読解力のない人たちが引き起こす事故まで結果論で追認してしまうのも違うとは思っている。道具としての割り切りと、「とはいえもっと皆ちゃんと読もうよ」という期待とは、いつまでもぐるぐるとせめぎ合っている。
最近は「友だちを作ろう」と言いふらしてるけれど、べつに友だちを沢山つくる必要はない。無際限な交友関係の拡張も、きっぱりとした切断も、どちらもやり過ぎはよくないというだけで、その時々のコンディションでどちらかの極を強調することはあれどそれは一種の方便である。 バランスをとるためにそのときどきで論の重みづけを調整しながら、両極のあいだで塩梅を探るのが大事。どちらかを取るような価値判断はつねにある種の詐術であることを自覚していること。
今年始めての日傘をさす日。ランチは目玉焼きのせハンバーグ、メンチカツ、エビフライ、唐揚げが鉄板に載っているやつ。おざなりなキャベツサラダに卵と玉ねぎのスープ、ごはん。ドリンクバーもついている。キャベツは鉄板にも添えられてあるからたくさん食べれる。
随筆かいぼう教室のギャラで本を買う。『tattva』のお金特集、『くちけむり』や『みみざんげ』で僕のなかで有名な吾妻俊樹の歌集、タイの怪談についての紀行文、『批評理論を学ぶ人のために』。
帰り道に宇多田ヒカルを聴きながら『tattva』を読んでいた。宇多田ヒカルってすごくいい音楽を作るなあと思った。今さらなことに今さら気がつくのは大事。