奥さんの誕生日が近いので、お祝いということで食べたいものを食べに行くことに。中板橋の白鳥にミルフィーユを求めにでかける。バスで向かうと片側三車線くらいの大きな国道で降ろされて、両側に駅が見える。どちらかが中板橋というわけだ。こっちかな、と向かったらときわ台についたので笑ってしまう。せっかくなので予定を前後させて先にKIBI’S BAKE SHOP へと歩き出す。「ご自由にお持ちください」がたくさんある街だ。僕らが住んでた板橋と違ってなんとも風通しの良さそうな土地で、息がしやすい。着くと開店まであと15分ほどある。さすがにお腹が空いていたので角のセブンですこし買って、タニタの広場は空いていなかったので向かいの公園のベンチで補給。バスに乗っている時から僕たちはずっと喋っていて、それは板橋に暮らしていた頃の記憶がそうさせていたのかもしれない。生活にまつわる思想の話をずっとしていた。真剣に。だからお腹が空いていた。
開店してすぐのキビズにはもう行列ができていた。カウンターの窓はすこし背が低くて、たぶん店内からはこちらの顔が見えていない。さわや歌さんはだから気が付かないまま隣の奥さんのことを、かわいいな、と眺めていたらしい。背の低い奥さんは確かにちょうど窓枠の高さに可愛い顔がある。しらじらしく岸波さんの立体を褒めてお知り合いですかと尋ねられたところで、柿内です、と挨拶すると悔しがっていた。コーヒーを淹れてくださる時間におしゃべり。奥さんの声を聴いてポッドキャストで聞いたことある! と言ってくれるので奥さんは照れていた。仕立て屋のサーカスのコートを着て行ったら、さわや歌さんも同じコートで出勤してきたらしい。なんだか嬉しい。お揃いだ。タルトフランと無花果と胡桃の黒糖パウンドケーキを買う。おまけのクッキーまでもらっちゃう。待ちきれなくて買ってすぐ近くの公園で食べちゃう。パウンドケーキもタルトも嘘くさい甘さを排したかっこいい美味しさ。これはとてもいいねえ、と二人でにこにこする。
川の渡り方で戸惑いつつなんとか中板橋に着く。白鳥の一階でミルフィーユと紅茶を2セットお願いして二階にあがる。あの妙に細長いトイレのドア!タイルばりのトイレの壁には「お互いに清潔にしましょう。」という標語が掲げられていて、いい標語だな、といつも思う。ここでも僕たちは白熱したおしゃべりを続けていた。僕のお金のことの考えられなさの話から、僕はずっとお金が嫌いというか不潔なものだと思っていると自分でも考えていたけれど、たぶんそうじゃない。僕にとってお金は言語と同じ道具であって、それは沈黙して溜め込むよりもじゃんじゃん使って行き渡らせないとダメなんだという信念みたいなものがあるから貯められないのだと思うという話に至って、そうだったのか、と感心する。
それから三田線沿線の、かつて住んでいた町へと歩いていくと、驚くほど嫌なことばかり思い出す。お金もなく、余裕もなく、自信もなく、ただ規範意識ばかりしっかり持っていたころの僕。暗黒時代だ。いま思い出すといちいちに明晰に反論が思い浮かぶ。悔しいな。あのころいまくらいの思考の蓄積があったら、あんなやつらに傷つけられることも、馬鹿みたいな価値観を内面化させられることもなかったのに。あのころの自分のために、自分の代わりに、いまの自分が涙が滲むほど憤ってくれる。それは当時の自分からしたら知ったことではないけれど、あのころは奥さんも本気で怒ってくれたのだった。僕に代わって、そして僕に対してまっすぐ腹を立ててくれた奥さんの言葉をちゃんと受け止めて、本を読みながら自らの思考の体系をイチから作り直したあの頃の僕はかなりえらいし、そのおかげでいまこうなっている。半分はあの僕のとりあえず目の前の他者の言葉をいちど真に受ける素直さのおかげだし、もう半分でありきっかけでもあるのはあなたなのだ、そう奥さんに感謝を述べながら僕はどんどん具合が悪くなって行った。この土地にいた頃の僕の状況は最低で最悪だったな。いまでも生々しいや。奥さんのおかしなことになっている現状にきっぱりと否を突きつける真摯さがなければ、僕はいまでもこんなに楽しく暮らしていたかかなり怪しい。
最寄駅から家までの道をなぞりながら、あらためてここと僕たちの相性はよくないな、と確認できた。唯一のほっとできる場所だった近所の銭湯が更地になっていていよいよ心が折れた。二人とも夕食を作る元気がない夜に通ったラーメン屋はまだあって、そこに向かう裏通りを歩いているときだけはなんだか優しい気持ちになった。バスに乗って家に帰る。夜はお祝いの豪華さ。焼売パーティー。
奥さんは今年はなんだか誕生日の実感が薄いな、桜や藤、ハナミズキまで二週間くらい早く咲いてしまったし、と言う。僕は暗い過去の記憶を宿した土地を歩きながら、この人と暮らすことで僕は生き直すことができたのだということを思い出していて、むしろ誕生日みたいな気持ちになっていた。
