アラームの二十秒前に目が覚める。緊張の徴。
新高円寺は初めて降りるかも、と言うと、そんなに高円寺っぽいのに?という反応が返ってくる。中央線はいつもそうで、僕は中央線に馴染みが薄い。上京前は東京といえば中央線であったにも関わらず。 山本ぽてとさんのポッドキャストにお呼ばれしていた。昨年の秋に配信された文学フリマ東京の回が好評だったとのことでかえってきたわけだが、二回呼ばれるというのはかなり嬉しいものだった。前回の文フリ東京は僕は行くことが叶わなかったのだけれど、僕が紹介したブースにじっさいに足を運んでくださった方もちらほらいたようで喜ばしいことだった。微力ながら盛り上がりに寄与できたならなによりだ。こうやってなんでもかんでも恒例化したり、常連になったりしたい。 二度目となると初対面の気負いもなく、どのブースの作品を挙げるか明確に決めきらないまま──これは前回もそうだったのだが──ぬるっと始めてしまえるぶん調子が出てくるのが遅くて、三回に分けての録音の二回目あたりからようやく勢いがついてきた感じがあった。はじめは眠気もあって少し不安だったけれど、最後はとても楽しかったなという気分が残った。聞き返したときに序盤のぬるさが悪目立ちしなければいいけれど。
収録を終えてみんなでごはん。ボルガライスという、この日だけで六度は「池上遼一 ライス」で検索して確認したのだけれどいっこうに覚えられないご当地グルメを食べさせてくれる洋食屋で、みんなボルガライスを頼んだ。オムライスの上にカツレツが載っていてデミグラスソースがかかっている。足し算の食べ物。子供にもわかる単純なおいしさだけがとにかくあれもこれもと詰め込まれていて、童心に返る。カツレツの衣はザクザクで、早稲田の学生会館のセブンでだけ異様に厚塗りにされた唐揚げ棒を思い出していた。こういう裏表のなさ、奥行きのなさがなんだかだいぶ喜ばしい。
解散後、山本ぽてとさんと神保町ブックフリマに行く。新宿三丁目で都営に乗り換え。新宿の人通りはますます激しい。神保町もさぼうるに人だかり。これはいつもだっけ。すずらん通りの入ったことないビルに入って、宮崎さんや友田さんや松崎さんにご挨拶。なんだかんだで話し込んでしまった。宮崎さんのご厚意で楽しげなお誘いまでいただく。こうやってさらっと誰かの「友」を繋げて増やしていく大人は格好いいな、と思う。 八木書店と白水社にも行く。図書館で借りて、これは買おうと思っていたようなものをまとめ買い。作品社で『ビデオランド』と『アウグストゥス』、白水社で『事の次第』、『ワット』、『紙の民』、『ヒュパティア』を買う。紙袋が重たく、家までの道のりがつらかった。電車ではじいさんに席を譲れてよかった。他人に席を譲れるかどうかがじぶんの元気の指標。就職してしばらくはまったく譲れなくて、俺のほうが疲れてる、とぐったりしていた。あのころの、生存のために発露される露悪的な利己みたいなものへの居心地の悪さと、どこか居直ってしまいたいと欲望する感覚は、いまでも燻っている。今も疲れてはいるのだが、美意識のためにやせ我慢できるだけの気力はあるようだった。
家に帰ってすこしだけ仮眠をとる。奥さんも観劇から帰ってきたのでふたりでゼルダ。ハイラルの大地に帰還したときの嬉しさたるや。もうほとんど帰省だった。ああ、この、帰ってきた、という感覚の他面、フィールドを横ではなく縦に広げたのだな、と思う。ずっと宙に浮かんでいたらどうしようと思っていたので、うれしい。
夜行バスまでの時間に日記を書きたいが、どうしてもスマホのフリック入力ではしっくりこず、『差異と重複』の売り上げで買おうと決めていたポメラを買いに家電量販店に寄る。タイピングのほうが僕は速い。速さは距離をかせげる。出先でものを書くことを強化したいというか、家の外に出て行くことを増やしたいと考えていて、いちいちMacを運ぶのはかなりしんどいのでどうにかしたかった。さらっと出かけて、ぱぱっと書く。そういうスタイルに憧れている。それはたぶん、『プルーストを読む生活』のころから芽生え、抑圧してきた欲望だった。本を作って、売りに出かけて、そこでもまた書く。そうやって、どんどんと人に会いに出かけ、土地土地との関係の結び損ねを重ねてみたかった。べつに人間の認識を書き換えようとも、ウイルスの実態はなにも変わりはしない。それでもなんとなく行動を変容させていく。自分の都合がいいように。愚かが過ぎる、とは思う。それでも、どうにも足取り軽く、遠くへと出かけていけてしまう。
ポメラのキーボードの感覚に慣れるのに時間が要りそう。バスの待合所でこの日記をかいていた。夜行バスは久しぶりで緊張する。『深夜高速バスに100回ぐらい乗ってわかったこと』を読み返しておけばよかった。読んだはずなのに、何がわかったのだったか覚えていないことに気がついた。四列シート、3800円という恐ろしく安いバスは隣の客との間のカーテンもなく、発車と同時に容赦なく消灯となるので、かえって車内の気遣いは保たれて、誰一人暗闇の中で液晶を発光させることもない。カーテンがあると、読書灯も点けることができて宵っ張りには便利だが、ほかの客も動くのでその気配に気をとられいつまでも眠れないということがあるが、こうやって誰もが瞑目してじっとするほかない環境だと、足も伸ばせない狭苦しいなかであれぐーすか寝れてしまうものだった。
