行きの電車に乗り込むとすぐさま本屋lighthouseのアフィリエイトページからKindleのページに飛んで『ハンチバック』を買う。行き帰りの電車で読み終える。多くの小説は、そこにどれだけの技巧があろうがさらっと読めてしまうところにこそ凄みがある。
八時前には北千住に着いて、吉野家で夕食を雑に済ませると編境を開けた。斜向かいのコンビニでかったピーナツと黒ラベルでさっそくはじめる。最初の一時間は存外盛況で、僕の棚からも5000円くらい売れたし、他の棚からも五、六冊は出たんじゃないか。夜開いてる本屋っていいよねえと思いつつ、どうせレジ打ちないだろうしと油断して酔っ払ったから、帳簿をゴテゴテした二重線まみれにしてしまった。知らない人とあれこれ喋る。問わず語りは飲み屋の流儀。僕も喋るほうだが、だからこそ喋る人の不思議さを思う。Ryotaさんと南森町さんが来てくれる。Ryotaさんに教えてもらった石田夏穂『我が友、スミス』が棚にあったのでレジ横の椅子にふんぞり返って読んで、読み終えたところで店じまいにした。日付が変わるころだったが、最後の一時間半は静かなもので読書が捗った。今日の売上は開けてはじめの一時間でほとんどで、あとはだから小説の時間だった。こんな時間まで外で本読んでるなんて、不良みたい。
小説のことを考えている。僕はほとんど小説を読まなくて、それはやはりこんなにもすぐ読み終えてしまうということへの不信ではないか。僕はなんであれ時間のかかる読書が好きだ。読む側に不当なほどの負荷を強いる、それこそ筋トレマシーンのような本が好きで、だから小説のこの表面上の軽さを持て余すのかもしれない。小説は軽い。日記ほどに。そのような感覚が僕にはある。軽いからこそ、どんな形式や内容もへらへらと受け容れるだろうという、これは信頼に近い気持ちでもある。なんであれ書かれたものはみみっちい。小説はこのしょうもなさを自覚するほかないフォーマットだと思う。知らんけど。門外漢としてこの文章表現について考えていくと、僕はどうしても日記の話へと論が逸れていく気がする。日記のほうがバカみたいで、偉そうさがないぶん、いくらでも不遜であれる。なぜなら日記は第一にこの個人を歴史として貸し出すほかないから。しかし個人とは、ある意味もっともあけすけな意味で歴史的な構築物である。偽史としての私を積み重ねていく、フェイクドキュメンタリーじみた日記。それでは私小説とはいったい何だろうか。
