2023.07.22

家を出て、いつものコンビニの四つ辻、四つの信号機の麓にそれぞれ警備員の制服を着た老人たちがいて、胸元のトランシーバーからすこし弾んだような通信チェックの声が漏れている。なんだ、と思う。駅から吐き出される浴衣の群れを見て、ああ、とわかる。花火か。四年ぶりだったろうか、ベランダから微かに見えるかもしれないそれをすこしだけ楽しみな気持ちでいたがそれは外に出ないで済むからで、今日に限って夜まで出かけることになっている。コンビニの軒先にホットスナックの機械が準備されていて、中身はまだ空っぽだった。群れに逆行するようにしてホームへ上がる。浮かれている人たちは、愚かで可愛い。なるべく気持ちが穏やかで、いい夜になるといいね。それで、僕が帰るときまでにはさっさといなくなっていてくれ。僕は楽園をイメージした色素の薄さで統一した服を着て、そわそわした空気の上澄みをなぞるようにして西側へと走る鉄の塊の中でじっとしていた。

祖師ヶ谷大蔵は友人が住んでいて何度か来たことがある。初めの下宿は梅ヶ丘で、小田急のホームはどこも同じ形だから違う駅でも懐かしい。BOOKSHOP TRAVELLER で奥さんを待ちながら本を買う。「出版人に聞く」というシリーズの『名古屋とちくさ正文館』という本を手に取る。今月までか。行けそうにない。七五書店につづいて、また行けない。店主の和氣さんは『会社員の哲学』を読んでFGO もやっているとのことで、ネロちゃまの話やゾンビの話を延々と聞かせた。奥さんと合流。

カフェムリウイの斜向かいのカフェバーで開演を待つことにして、シードルと燻製紅茶、チーズ盛り合わせをはんぶんこ。テーブルではじめて、最後の方でカウンターに移ると隣のふたりが遊星Dの話をしていた。月の話、なんかわかる気がしたな。どんな話なんだろう。

カフェムリウイはビルの階段を登ると突き当たりの鉄扉が開け放たれていて、そこから外階段で入場する格好で、これだけでもう楽しい。夜風がきもちのいい時間帯だった。空間に対して窓が大きくて、アクトスペースは窓側にあって、客席は奥の壁面に沿ってつくられている。空間の中央には段ボールが積まれていて、内側からだと窓の景色が半分以上遮られている。客席から見て左側にはさっき上がってきた階段があって、ひとはそこから現れて、段ボールの影に隠れたあと、右手前に出てくる。これがすでに目に楽しい。『低き楽園』。60分で7本の短編が上演され、さらっとした転換の処理が気持ちよい。マイムのラフさや、発声の素朴さが気の抜けたいい感じを醸し出し、段ボールと窓の配置の妙で目がずっと奥と縦の方向に動くので楽しかった。空間に置かれた俳優や観客に負荷をかけないというのは狭い劇場のほうが難しく、キャパ30弱の広さで大きな声を出されたらそれだけで怖いのだが、腹の底から顔を真っ赤にして泣く声や、雑に踊り狂う長い手足が、とくに迫力もなくただ面白くあるというそのつるっとした質感がたいへんよかった。導入であんなにはっきりと客席を劇空間に巻き込んでおきながら直後にあっさり突き放し、窓を間に挟んで外にいる俳優の身振りと劇場に響き渡る声とがわりとしっかりめにズレる段階ではすっかり観客は安心なところにまで後退させられている。ここ巧かったな。閉鎖空間で何人かが結託して大きな声や身振りを見せびらかしてくるというのはかなり脅威で、怖いことだ。だからこそ手前から奥のラインがつねに強調され、窓の向こうの景色が見通せるというのはそれだけで、あーすぐに抜け出せる、という安心がある。じつは演出も俳優もとても巧いのだが、その巧さが緊密さではなく余白として機能していたのが好ましくて、構築的でありつつべつに崩れたってかまわなそうな大らかさがある。ちょうど作中の人物が話の筋を見失うシーンで窓の向こう、下手最奥の階段から遅れ客がぬーっと頭から現れてテラスを横切る。その運動に気を取られているうちにそのままそそくさと上手のドアを開けて劇空間に侵入してくる、その事故が鮮烈で、いいシーンだった。あまりにいいシーンで仕込みかと思った。

しっかり面白くて、面白くなければ好き勝手べらべら捲し立てて間を持たせればいいのだから気が楽なのだが、いいものを見た手応えがあるからこそ自分が表に出ていくのが申し訳なくて恥ずかしくて仕方がなかった。客席はいっぱいで、今日は誰も僕を見たかったわけではないだろう、はやく帰りたいんじゃないかと思いながらぽつぽつ喋る。アフタートークのゲストとしてお呼ばれしていたのだ。ただ奥さんと二人でずっとくすくす笑いながら過ごしていたのにいきなり喋るのだからたいへんだ。僕が関係者だったらまずアフタートークのゲストというのはなんかえらそうで嫌うと思う。堂々としていたほうがむしろよいだろうとわかっていながらもだいぶ萎縮して、せっかくの芝居のおわりにお邪魔しているという気持ちが拭えなかった。そそくさと帰り、そのため戯曲を買うのを忘れたことに気がつく。

すこしうろうろするも商店街の夜は早く、終電もすぐなので諦めて帰る。奥さんは目を光らせているウルトラマンの広場でパンを食べて小腹を満たした。日付が変わる頃に帰宅。もちろん花火はとっくに終わっていてすんなり帰れた。道も思ったよりも清潔だった。作り置きのあじの南蛮漬けと納豆ご飯をかるく食べて日記、シャワー。きのうRyota さんに教えてもらったポケモンの添い寝アプリをインストールしたから、はやく寝てあげないと鼠をがっかりさせてしまう。

柿内正午(かきない・しょうご)会社員・文筆。楽しい読み書き。著書にプルーストを毎日読んで毎日書いた日記を本にした『プルーストを読む生活』、いち会社員としての平凡な思索をまとめた『会社員の哲学』など。Podcast「ポイエティークRADIO」も毎週月曜配信中。