2023.08.01

地下一階のその店舗はおそらく夜はバーで昼間はカフェとして看板をかえて営業していて、たまに労働飯を食べにいく。外はものすごい雨らしくてネクタイを締めた二人組が引き返してきた。奥のテーブル席でごはんを食べていた二人で、料理を待つあいだも無口だった。今度は手前のテーブルに腰かけて、ひゃあひゃあと雷雨のものすごさを語っている。店主は水をコップに注いで出してやった。僕がここに下りてきたときは曇り空ではあったけれど日も射していて、とても降るようには思えなかった。東京アメッシュを起動するとなるほど近辺は紫色で塗りこめられ黒々としている。傘なんか意味ないっすよ、と片方が言った。カウンターの端に僕がいて、もう一方の極にいた一人客もいちど外に出て、これはどうしようもない、ダメですね、と苦笑を浮かべて戻ってきたので相当なものなのだろう。トイレに行くと換気扇ごしに雷の重低音がずーんと響いておりたしかに大変そうだ。休憩時間を過ぎても悠々と読書する口実ができたとコーヒーをちびちびやりながら本を読んでいた。店主とふたりのネクタイ、そして一人客はそれぞれに浮足立った様子で、先ほどまでの都会的処世としての知らんぷりを一時的に解除してささやかな災害ユートピアの予感を思わせる社交を実現させていた。僕はそれを横目に明治期に成立した日本の私小説の特異性について考えていた。こういう時、時間を持て余して教室を抜け出て廊下をあてもなく歩き回っていたときの感覚を思い出すような気がする。それはべつに孤独でもなかったし、さみしくもなく、ただ歩いていただけなのだが、すこしは友人の少なさについてみじめさみたいなものを考えただろうか。考えたのではないかと思う。それは自分の実感としてでなく、漠然とした他者からのまなざしとして考えられていた。そういう規範意識みたいなものを察知して居心地が悪くなるのが思春期というものであって、自意識というのは社会性とセットでしか成立しないから多感な時期というのは実際のところ社会に向かって感性を一意に閉じていく過程でもある。赤黒い雨雲は埼玉の南東のほうで突発的に発生し、そこから東京の東側を上から下へ駆け抜けて神奈川に覆いかぶさるように拡散していくように見えた。もうすこし北のほうからおりてきたのかもしれない。東京アメッシュの広域表示では埼玉よりむこうはあいまいであまりよくわからない。店内はもう静まり返っていて、誰もが思い思いの時間を過ごしていた。

誰とでも仲良くできるわけではないのだ、というようなことを昨晩は話していて、ますます眠れなくなってしまった。益田ミリの『どうしても嫌いな人』のことを思い出していた。だいぶおぼろげな記憶ではある。たしかあの作中のどうしても嫌いな人は、どうしても嫌いになってしまいそうに描かれていたはずだ。エッセイ漫画の主観性を真っ向から引き受ける態度だと思う。しかし僕の場合、だいたいのどうしても嫌いな人は、要素だけ抜き出してみたらそこまで嫌う道理が通らないような人ばかりだ。みなチャーミングなところも多々ある。それでも、細部においての違和感が積み重なってどうしても嫌いになってしまう。そういうことが多い。なんなら嫌いなところを列挙すればするほど、え、そんなことで? と自分で自分の謎の狭量さに引いたり、不合理なこだわりの笑えない可笑しみに戸惑ったりするだろう。そうやって自分のどうしようもなさに腹が立ってきて、むしゃくしゃした気分の原因を嫌いな人へと転嫁するような幼稚ささえ発揮する。お前のせいで僕はこんなにも可愛くない状態になってしまうのだ、お前さえいなければ僕はそこそこ人好きのする人間であるはずなのに! われながら、非常に感じが悪く、救いようのないガキである。しかし、人が人を嫌うとき、本当に嫌っているのは人を嫌うような自分自身なのではないだろうか。あらら、ほらほら、またすぐ自分のいやさから目を逸らそうとする。いやらしいねえ。

嫌うとは何なのだろうか。人は大局的な思想をもとに目の前の誰かを嫌うことができるだろうか。僕はどうもできない気がする。それよりも、話すときの語の選択や、食べかたや、日常の所作のはしばしへ覚える反感こそが嫌いの原因であることのほうが一般であるように思う。これは、階級の再生産と非常に親和的である。「生理的にむり」という暴言はいまだ現役なのだろうか。生理的な反応ほど社会構成的なものもない。これはつまり「自らの属する社会的立場が自明のものとしている価値観からしてむり」ということなのだから。嫌うとき、追及するべきは当然のように何かを嫌える自身の価値体系の成立過程なのではないだろうか。しかし、そこがある程度クリアになったところで、嫌いなものは嫌いなのだからてごわい。好き嫌いの表明は、思想以前にその人が不問のものとしているものをかなり露骨に示してしまうものなのだろう。僕はうそつきだから、この日記でも好き嫌いの明言はかなりぼやかすし、攪乱のためにフェイクを入れさえする。何をどう考えているかよりも、何をどう描写するか、その細部にこそ、その人の不問にしているものたちが滲むのだ。

柿内正午(かきない・しょうご)会社員・文筆。楽しい読み書き。著書にプルーストを毎日読んで毎日書いた日記を本にした『プルーストを読む生活』、いち会社員としての平凡な思索をまとめた『会社員の哲学』など。Podcast「ポイエティークRADIO」も毎週月曜配信中。