シネマート新宿に向かう。『キラーコンドーム』が映画館でかかるのだ。学生のころあまり褒められた方法ではない方法で断片的に視聴して、思ったよりもちゃんと面白いんだなと感心しつつガビガビの画質でディティールはよくわからなかった作品だ。開場前のロビーは超満員で、すごい。久しぶりに東京を感じる。好き者どもの都市だ。一晩で男根が四本噛みちぎられるくらい日常茶飯事だろうという説得力がある。このニューヨークでは不思議なことにドイツ語ではなく日本語がよく聞こえるようだが。とことこと可愛らしく歩くぜんまい式コンドームの玩具は初日に即完売だったらしい。のちに判明するのだがこの回が大入りなのはトークショー付きだからのようで、そこで聞いたところによるといまぜんまい仕掛けじたい対応できる工場がほとんど絶滅しているのだという。そんなに欲しかったわけではないが、買えないと惜しい。ゴミが買いたい気分だったから。シェアハウスで一緒に暮らしていたある人は定期的にどうでもいいものを持ち帰っては、ゴミ買ってきた、と嬉しそうに教えてくれた。なぜゴミだとわかっていて買うのかと問うたことがある。だって、ゴミ買うの楽しいじゃん。それがこたえだった。僕はそのこたえに魅了され、いまではゴミを買って楽しくなりたい日だってある。トークは映画プロデューサーの叶井俊太郎、ポスターを描いたロッキン・ジェリー・ビーンの二人が登壇する。僕はあの紀伊国屋書店のビル一階に入っているシーシャ屋でよく見かけるコンドームの広告のぎらついたお姉さんのイラストは海外のデザインの流用だと思いこんでいたがタイガーマスクのような日本人だった。トークはかなり面白く、ゴールデン街で偶然聞くエピソードのような雰囲気があったが、映画じたいもよくて、25年前にリアルタイムで見たおじさんがたはきっとH・R・ギーガーやらケレン味たっぷりの露悪趣味を期待してがっかりもしただろうが、一本の映画として見ると非常に味わい深い。マカロニ・ウエスタンならぬマカロニ風味のジャーマン・ハードボイルドというかんじで、オープニングの硬質さからラストのしっとりとした余韻まで、全編ダンディが充満している。ポスターこそ女体趣味だが、実際この映画のセックスシンボルは男たちである。女性の裸はまったくといっていいほど出てこず、彼女たちはだいたい大きな口を開けて悲鳴をあげるためだけに存在するようだ。男たちは若者からおじさんまで、さまざまな肩、お腹、胸板、お尻が官能的に撮られている。とくに主人公のマカロニは、セクシーとキュートを兼ね備えていて、むっちりした裸体を惜しみなく披露するが、実はこの映画、きちんと股間についている局部は一度も映さないのだ。男娼の顔に落ちる陰でそそり立つ巨根を表現するところなんかは面白い。主人公がとうとう自らの孤独を認め、愛ある情交にいたるシーンのホットさもけっこうなものだ。そう、本作はちんちんを噛みちぎられる話なのに、ちんちんをあまり笑いに利用しないのだ。噛みちぎり描写ももっとグロく楽しくできそうなところをかなり抑制が効いている。つまりこの映画におバカなノリやエロ・グロ・ナンセンスを期待すると肩透かしを喰らう。設定はふざけているようにしか思えないのに、ハードボイルドな雰囲気を楽しめと要請してくる変な映画なのだ。僕はTシャツを買ってトイレで着替えてこれを観た。入場特典のコンドームももらえた。劇場内のダンボールにこんもり搭載されていて、そこから一人ひとつ取っていく仕組み。気合は十分だ。しかしこんなに熱く語るような代物ではないだろう。
トークが思いのほか長く楽しく、次の予定までギリギリだった。都営新宿線から三田線に乗り継ぐ。今日は江戸川と板橋で花火大会らしくどちらも臨時ダイヤだ。浴衣が目立つ。僕は三田線は都内屈指の負のエネルギーが充満した路線だと思っていて、乗るたびに具合が悪くなるのだが、きょうはさすがに陽気で、隣でべとべと溶け合うようにいちゃついているカップルが頼もしかった。
板橋の区民センターでカハタレのワークショップ。きょうは講師として蛙坂さんが出る。僕としては夢のコラボだ。おもしろい演劇をつくる人たちと実話怪談作家とのやりとり。僕はへんに両方に知識がある素人だから、しゃべりすぎないように気をつけて周りの反応や言葉に耳を澄ませた。幽霊とはなにかを共同で考えていく作業のなかで、ハマスホイとボレマンスの絵画が挙げられて、怪談は絵画的であるのかもしれないという予感を強めた。水木しげるの細密な背景の描き込みとも通じる。非在の表現において、風景描写の真剣さというか、風景に意味未然の何かを含ませるための描写に対する注意の濃度というのは必然的に上がるものだろう。幽霊は実体ではなく余白だからだ。余白であるくせに、それは単なる抽象的な空隙ではなく、具体的な物質としてあるというのがややこしいのだが。風景の裂け目としてあるマテリアル。蛙坂さんが怪談本から幽霊描写を抜粋してきたレジュメだけでもきた甲斐があったというもので、それらの文章を車座になってみなで読み上げていく。黙読だとおぞましさしかない描写に、笑い声が起こる。当然だ。黙読だからこそかろうじて保たれる非在の感覚が、音読だとはっきりとした体を持ってしまう。それは滑稽だ。俳優たちの朗読は怖がらせようという意図を感じさせずとにかくテキストとして素で読むので、よりいっそう体が際立つ。怪談の語りはほとんど形式化されているから個人の体の臭みを消して、ただ怪談臭い語りとして立ち上がる。そのおかげでかろうじて非在の予感が保たれている。しかし演劇で幽霊をやるのであれば、いっそこの無視できない具体的なからだをきちんと使うほかないのかもしれないとも思えた。誰かが誰かから聞いて書いた話を、また別のからだが上演するという遠さを、そのままに遂行すること。三者の距離をどのように可視化するか、しかしこれは実話怪談の上演の可能性であって、幽霊の上演についての考えではない。
みっちり三時間半のワークを終えて、商店街の中華屋で円卓を囲む。ビール飲む。楽しくお話しして、稲垣さんと途中まで一緒に帰る。まだ電車には花火大会の名残のような混雑があって、それもしばらくすると消えた。家に帰る前にポケモンが眠そうだと通知があって、寝る支度ができたのは二時過ぎだった。ポケモンが過労死してしまう。日記は翌朝に持ち越し。
