2023.08.07

きょうは寄稿した『文學界』の発売日。きのう帰るころには投函されているかなと思ったのだがまだだったので、朝から家で労働をしながらあいまに郵便受けを確認しにいくのを繰り返していた。午前中に二度、起きてすぐと昼前に見に行く。まだだった。遅めのお昼に素麺をゴマだれで食べてから夕食の買い出しに出るつもりで、そのときにまだ届いていなかったらいっそ本屋に寄って立ち読みでもしてしまおうかと考えていた。ポストを覗くと茶封筒が入っていたのでうきうきした気持ちで買い物だけ済ました。小玉すいか、梨、豚バラブロック、ひき肉、ナンプラー、ブロッコリー。

労働が落ち着いてからぱらぱらと捲っていく。松尾スズキのエッセイにうなずき、自分の原稿への文脈を作ってもらえたと勝手に嬉しくなる。『馬馬虎虎』の壇上遼のエッセイがいい。宮崎さんの「定義を拒み、内部に開け──エッセイという「文」の「芸」」という論考がやはり白眉。文献の整理の仕方や、見出しの工夫など、本格的でありながら読みやすい仕上がりで、流石の技量だと感じる。エッセイという非方法的なものを方法的に論じるという無茶を、堅実な顔をして実行している文章で、これは繰り返し読んで吟味したい。こういうしっかりした文章と並ぶと僕の書いたものはやはり論考とは呼べない。とはいえ「「我」の叙伝」を脱し「文化の自叙伝」へと向かう意志は示したつもりだ。僕は何かを書くときつねにある種の偽史を制作しようとしているのかもしれない。先人たちの思考や実践を濫読し、その流れの中にべつのなにものかを見立てること。ひとまず宣伝のためのツイートにはこう書いた。

本日発売の『文學界』9月号に「エッセイという演技」という文章を寄せています。エッセイに限らず表現全般への賛辞として「嘘がない」という文句が膾炙している状況への異議を申し立てています。「論考」と銘打たれていますが、僕はこのエッセイ自体も一種の演技として書きました。僕は嘘つきが好き。

僕にとっては自分の書いたものが当然いちばん面白いのだが、自分にとって面白いということと、他人から評価されるものであるかどうかはまったく関係ない。両者を冷静に峻別しつつ、なお前者の側につく意固地さをもつこと。エッセイにおいて肝心なことはなによりそういう偏屈さなのではないか。ひとまず半分くらいのエッセイを読んでみてそんなことを考えた。定義を拒むという性格においてエッセイを定義づける──あるいは定義が不可能であることを提示する──のであれば、僕が好んで書くものをエッセイと言い切ってしまってもいいかもしれない。ジャンルの輪郭をつねに撹乱するもの、うまくほかのジャンルに分けそびれたものが十把一絡げにエッセイという箱に放り込まれるのだとすると、これは文章表現における雑貨といえるではないか。僕の読書態度がつねに雑貨的であることを考えると、これほどふさわしいものもない。ひとまず既存のジャンルに属しているのだと断言してしまったほうが好きに書ける余地も大きくなる気がしてきた。もっと色々書いてみたい。次に作る本はなんであれエッセイ集と言い切ってみようかと思う。

角煮を煮込む鍋のうえに蒸籠を置いてポテサラも作ろうと思ったのだが、煮汁では蒸気がうまくなく馬鈴薯がシャキシャキになってしまった。ホクホクにしてあげたかった。角煮は美味しかったが、すっかりポテサラの口だったので、ううむ、と思わず眉根を寄せてしまう。角煮はかなり美味しく、たくさん作ったのであす更に味が染み込むであろうことが楽しみだ。奥さんは四個ある玉子をひとつもとらず、もっと沁み沁みになるのを待つ心づもりのようだ。食後、奥さんが配信を見ているあいだ、僕は『ほんとにあった! 呪いのビデオ』を見たり、『文學界』に目を通したりしていて、いつ終わるともしれないので日記も終わらせておくことにした。シャワーを浴び終えて、呪われつつ日記を仕上げていると奥さんがやってきて、久しぶり、と言う。家にいながらに数時間解散するというのはなかなかないことで、こういうのもいい。べつに好きな人がすぐそばにいるからといって、四六時中くっついていなくてもいいのだった。そんなことすら新鮮に感じてしまうほど、僕はひまさえあれば奥さんについて回っているようだった。子供の頃は母のうしろを追いかけ回して甘ったれだと揶揄われたが、どうも三〇過ぎてもあまり変わらないらしい。おそろしいことだ。

柿内正午(かきない・しょうご)会社員・文筆。楽しい読み書き。著書にプルーストを毎日読んで毎日書いた日記を本にした『プルーストを読む生活』、いち会社員としての平凡な思索をまとめた『会社員の哲学』など。Podcast「ポイエティークRADIO」も毎週月曜配信中。