2023.08.09

労働中の単調な作業のあいだ街裏ぴんくのポッドキャスト「虚史平成」を聴いていた。まったく知らないまま劇場ではじめてパフォーマンスを見たとき、内容はぜったい大嘘なのに語りの技法によって強度のある説得力が醸し出されていて、客席で笑っているこちらの安心がやや揺らぐ瞬間がいくつもあってとても面白かった。僕たちはいったい何を基準に虚実を判断しているんだ?目の前で確信めいた態度で熱弁をふるわれたら、すくなくともここには一片の真実があるというような気分になってくるものではないだろうか。じっさい僕はそのようなぐらつく感覚を何度か覚えたことがある。新入社員研修や宗教勧誘なんかに遭遇した時なんかに。

労働の合間についつい「文學界」で検索してしまう。念のため「文学界」でも調べる。ひとりでも柿内のが面白かったと言ってくれる人がいれば一日ハッピーだった。だから今日はハッピーな一日。今回の寄稿はいつも以上に反応が気になる。特集の問題意識がもともとの関心に近いというのもあるし、わかしょさんやオルタナさんのように、勝手に仲間意識を持ってしまっている書き手と一緒に載っているというのもある。ちゃんと恥ずかしくない感じに居ることができているだろうか、という不安がいつもより強い。これが大御所ばかりであれば逆に開き直れるというものなのだが。僕は目上や格上に対しては堂々としていられる不遜さがあり、これは昔からそうだ。年上の友達といるほうがのびのびとしていて、同級生や同僚といるとどうにもぎこちない。しかし見開きに収まるほどの文字数というのは食い足りない感じがあるなと改めてすべて読み返して感じる。僕はたくさん書かせてもらえて嬉しかった。しかしだからこそ「論考」枠なのかもしれない。つまりエッセイとは分量のことなのかもしれないなと考え「長編エッセイ」で検索してみたら「坂本真綾、初の長編エッセイ」というのが出てきた。長くてもエッセイはエッセイでいいらしい。ということはエッセイは分量ではないということだ。

秋にまた本を作るとして、八万字くらいあれば格好はつくだろう。平均して一編二千文字くらいの短文を集めていくとなれば四〇だけ書けばいいことになる。調子のいい日が十日、あるいは悪くない日が二十日もあればいけるだろう。この目算はだいぶ甘ったるい気がするが、まあこのくらい豪快な見積もりでなければ面倒で書く気にならないのだから仕方がない。サボりで入ったベローチェで、そろそろ出ようかというときに窓越しに轟音が聞こえてきた。ものすごい雨なのだ。だから仕方がないともう三〇分だけ本を読んでいた。

じわじわと「エッセイのような論考」という原稿に付された見出しに感銘を受けている。うまいこと言うな、僕はエッセイとしての論考を読むのが好きだったなと思う。試しに書いてみる、何かが動き出す、それをひとまず書けるところまで書く、すると思いもよらなかったところまで考えている。そういう動きのある文章がいい。

柿内正午(かきない・しょうご)会社員・文筆。楽しい読み書き。著書にプルーストを毎日読んで毎日書いた日記を本にした『プルーストを読む生活』、いち会社員としての平凡な思索をまとめた『会社員の哲学』など。Podcast「ポイエティークRADIO」も毎週月曜配信中。