図書館でようやく順番がまわってきて、あとにも百人くらいいるからとりあえず読むかと『推し、燃ゆ』を読んだ。Kindleを買った時に記念に購入して読んでいた『ハンチバック』と並べるように読んで、考え込んだ。
弱さに寄り添うようでありたいけれど、自分から弱いほうに近づいていって弱ってみせるというのは欺瞞だ。構造のなかで相対的にもっている強さを否認するわけにはいかない。弱さの側からの視点を装ってものを言うのではなく、こうむっている優位をことさらに卑下するでもなく、強くも弱くもあるこの地点からの言葉を探すこと。安易なポジションに自己を定位してしまわないようにすること。当事者としての身体感覚と思想のどちらかではなく両方ともを使って塩梅を探るほかない。
しかし、今日という日に、たまたま図書館で順番がやってきたからという理由で『推し、燃ゆ』を読んだらこれは敗戦の小説ではないかと驚いた。「推す」という現代的な偶像崇拝を、こうもあからさまに天皇制の似姿として描くこと。偶像はみずからふるった暴力によって燃え上がり、一時はそれすらもいっそうの高揚を引き起こす契機となるがついには敗け、ただの人になることを宣言するに至る。炎上のきっかけとなった暴力は、ファンたちの結束を強めこそすれ、暴力に至る構造の不当さは追及されることも反省されることもないままになあなあにされる。あとにはただ「背骨」を失った実存の不安だけが解消されないままに残る。ここにきて、のちの高度成長によっていちど目を逸らすことができてしまった戦争というものの重みを改めて文学が引き受ける段になったような、そんな感覚を強くもった。めちゃ売れてる本であるし、こんなこと、すでに百億回くらい言われてることなんだろうけれど。なんというか、この本を読んでようやく僕は現代的な切実さを持つ主題として天皇制を考えるとっかかりを得たような気持ちだ。
奥さんが実家から持ってきた古いレシピ本をもとにとびきり美味しい油淋鶏をつくってくれた。レシピ上の名前は「鶏もも肉の代わり衣揚げ」。「できるだけたくさん片栗粉をまぶ」すのがコツ。このざっくりとした指示が楽しい。レシピ本のコンセプトじたいも、十二人くらいの友達を呼んでパーティーするとして予算一万円でどんなコースを振る舞うか、というお題に対して何人かの料理研究家が応えていくという体裁で、食器も小物も各人の私物だという。なんとも景気のいい話だ。材料もいまとなってはなんやそれというものも多く、いま一個でも例を挙げたかったが馴染みがなさすぎて忘れてしまった。