人には人の合理性。たとえば構造主義と実存主義の考え方を知ったとき、これはたしかに理屈としては対立しているが、生活の実相においてはどちらもよくよく説明のつくすごいツールだなあと思った。ポストモダンなんかもべつに現代ならではの思想なわけではなくて、これまで暗黙知として機能してきたような、子どもが大人の都合から上手に漏れ出ていくその機制を理論化したものに感じられる。この一文は余談だが、そういう目で見てみると文明史というのは幼稚さの領域の拡大とも見えてくる。
ひとつの見立てだけでは取りこぼすものをきちんと掴むための別の見立てがあるというだけで、ふだんの会話を「どっちの見立てがイケてるか」みたいな殲滅戦にする必要はないのだが、文字でのコミュニケーションは意識しないとそうなりがちで、なぜなら特に書き言葉の語彙というのは当人の依拠する見立てに非常に規定されるものだからだ。書かれたものを読むとき「この書き手はどの見立て=合理性を判断するための体系を使っているんだ?」というのを問わずに自分の側の見立てだけを使うと、あまりに不合理に感じられてそもそも冷静に読めない、ということになりかねない。
「論敵」みたいなものを話の通じないバカだと思ってしまうとどうしようもなくて、相手の外界をとらえる目のありようや判断の合理性を担保する基準みたいなものを捉えないことにはお互いに議論したつもりでバカバカ言い合ってるだけになる。ゴシップしか読んでなさそうなおっさんが酒臭い大声でのたまう人生訓に、これまでの哲学的論争を要約したような含蓄が含まれていて不覚にも打たれてしまう、みたいな経験にこそ僕は関心があって、そういう大半の人たちの文書化されにくい合理性をこそ読みたい。なるべくバカにしないで目や耳を澄ましたい。
そんなことを考えつつ、いまの関心はすこし別のことで、もしかして「僕って頭いいのかも」ということだ。
どういうことかというと、僕はこれまで、いやいまでも、特にものを書く自分のことを「この世の誰よりも頭よくない」と思っていて、だからこそ他人の合理性につよい関心がある。人と話したり本を読んだりして、誰かの合理性を支える価値体系のようすを知るたびに「すごい!」と面白がってきたし、その興奮を糧に書いたり喋ったりしている。
でもこの調子で面白がることじたい、かなり「頭よいこと」なんじゃないか? その「頭よさ」に無自覚なまま振る舞っていると、かなり有害ななにものかになるな、という感覚がさいきんはある。
貧乏な幼少期を送った成り上がり者が新自由主義的な価値観を素朴に内面化してしまうように、「頭よくない」という感覚を持ちすぎるとほかの「頭よくなさ」に対する不寛容が根付いてしまうのではないか? 俺はちゃんとやってるからこの程度の「よくなさ」で済んでるのに、誰々ときたら、みたいな振る舞いをなんも考えずやらかしてしまってないか?
まだうまく言えないけど、自分は「頭よい」ものとして書いたり喋ったりするほうがいい場面もあるかもしれないなと思い始めたという話だ。当然この「よしあし」の判断じたいも、依拠しうる価値体系がいくつもあり、安易な能力主義に流れていくことを警戒しなければいけないが、「よしあし」の相対化に心を砕くあまり、行為の水準で誰よりも「よしあし」の区分を強めるようなことになっていないか、ということにこそ気をつけたくなってきたというか……、まだよくわからない。
なんだろう、過度な自己卑下は過剰な自信と同程度にヘルシーでないということだろうか。あるいは、自分がダサくてバカなものという前提で書くよりも、ふつうに当たり前のことを書くくらいのほうがいい感じに書けるのではないかと改めて思ったということだろうか。そもそも本当に僕は自分のことを「頭よくない」と思っているのか? そう書くこと自体が欺瞞ではないか? いやしかし読めば読むほど書けば書くほどわからないことが増える、無力感が募るというのも実感としては重いのまた確かで、いやもうなんもわかんないな。暑いし。