2023.08.19

子供のころに眺めていた『不思議どっとテレビ。これマジ⁉︎』や『奇跡体験!アンビリーバボー』、夏の心霊特番のようなオカルト番組が本当に好きで、でもいつからか「嘘じゃん」「やらせかよ」みたいな野暮なことをワイプで抜かれたタレント自身がコメントするような事態が進行し急速につまらなくなった。これはエッセイの奥にほんとうの経験を読み取ってしまう読者の問題と裏表だ。嘘かまことかを軸にして面白くなることはない。明らかな嘘に「でも、もしかしたら……?」とこちらの認識を揺らがせる説得力を持たせる技こそが魅力であったのに!オカルト番組は真実らしさの演技をやめた途端に、なにもなくなってしまう。誰も真実などという中身は求めていなかった。喚起力に富んだパッケージに惹かれていた。内容ではなく、身振りのほうにこそ果実があったのだ。

エッセイにせよ私小説にせよ、あるいはミュージシャンや俳優の仕事なんかもそうだ。パフォーマーのパフォーマンスは一種の方便つまり演技である。こう言うと、「人を嘘つき呼ばわりするなんて」みたいな、どちらかというとネガティブな指摘であるという印象をもたれがちのようだ。僕は真実よりも「らしさ」のほうが大事だと思っているので、演技にこそ惚れ惚れする。「その嘘のつきかたがすてき!」「鮮やかに騙されてきもちいい!」みたいな。素敵な人がいるのではなく、素敵な身振りや身なりがあるだけ。人の内面でなくその表面を喜ぶというのは、べつにルッキズムとは限らず、演技を通じて立ち上がる主体に価値を置くという意味では、下手な裏読みよりもずっとその人の意図を尊重しているとも言える。エッセイを褒めるとき、それは髪型や服や化粧を褒めるのであって、すっぴんの素顔を評価しているわけではない。書かれたものの素敵さを感受できる人は、素敵さへの意志を見ている。素敵さは、演技者と観客の共犯関係によって成立する。だから素敵が成立するとき、書き手と読み手が同時に素敵になっている。

真実らしさに惹かれるとき、「らしさ」の演技性ではなく、「真実」のほうに重きを置いてしまうというのは非常に危険な錯誤であるとすら思う。真実を求めれば求めるほど、国家も資本主義も自我も、すべてある時代や環境によって構築された価値体系を前提としたひとつのフィクションであることへの盲目がいっそう深く根付いてしまう。これしかないという感覚は、息をしづらくする。楽しくやっていくのに必要なのは、これ以外もある、という予感だ。

よき噓つきは、凝り固まったものの見方を誇張的に演技することで「らしさ」を成立させる条件を明らかにしたり、いま主流である真実らしさとは別様のホラを吹くことで「真実」のありようを複数化して相対的な価値判断への道をひらく。ああ、こうしなきゃいけないわけじゃなくて、ああいうのでもいいんだ、と肩の力が抜けるような嘘。そういうのが好き。

エビデンスでもってフェイクニュースに立ち向かうというように、粗悪で有害な嘘に騙されない必要に迫られた結果、嘘の姿かたちを味わうという読解の道がどんどん曇っているような気がしている。真偽の監査のように読むべき本ばかりではなく、ハイキングやピクニックくらいの気分で鑑賞するものもたくさんある。

柿内正午(かきない・しょうご)会社員・文筆。楽しい読み書き。著書にプルーストを毎日読んで毎日書いた日記を本にした『プルーストを読む生活』、いち会社員としての平凡な思索をまとめた『会社員の哲学』など。Podcast「ポイエティークRADIO」も毎週月曜配信中。