月曜に姑獲鳥から始めて、金曜夜に鉄鼠の頭まで来た。面白いねェと感心し乍ら読み返している。このペエスで行けば新作発売までに旧作の再読が間に合うかも知れない。もう真逆を「まさか」としか読めない。しかしたぶん僕は狂骨あたりまでで、鉄鼠以降はあまり覚えていないような気もする。ここまでは記憶を辿るようにして読んでいたからサラサラ読めたが、ここからはどうだろう。たしかに絡新婦までは読んだはずで、塗仏もなんとなく覚えはあるが、陰摩羅鬼と邪魅はたぶん読んでいない。初めて百鬼夜行シリーズの新作が出るんだ! とわくわくしたのが『陰摩羅鬼の瑕』であったのは鮮明に覚えていて、であればこれは2003年で中学生になる頃だ。これまでに既刊を読んでいたとすれば『塗仏の宴』までは読んだんだろう。『邪魅の雫』の2006年にはもう関心がいちど薄れていた気がするから、やはり夢中で一気読みしたのはいけたとして『塗仏の宴』までだ。小学生の集中力であれば『狂骨の夢』あたりで息切れしていても可怪しくはない。きょう『狂骨の夢』を読み終えて思ったのは、この本は僕にとって降旗くんの悪夢のようだということで、貪るように読んでいた時期、僕はまだ性行というものが具体的にどんなものなのかわかっていなかった。だから「和合」とか書かれていてもよくわからず、なんとなくむずむずしていた。そういう不明な感覚は覚えているものだから、わからないままわからないなりにちゃんと読んでいたのだろう。セックスっていうのはこういうものと気がついたとき、あれもこれも読んできた本の暗がりになんとなく予感されていたものは、なんだこんなものであったか、と思ったのを覚えている。ショーン・コネリーの『薔薇の名前』のあるシーンの衝撃も、正体を知ってしまえばそのほかの陳腐なあれこれと並べることができてしまう。性的な知識の覚えは、それまで本や映画に感じていた神秘のひとつを俗っぽい助平に変えてしまった。わからないまま、なにかそこには人を狂わす誘惑があるのだ、という不安や期待を抱いていた時期の読書は、とてもいいものだったと思うし、そのころに持っていた畏れや、正体を知ったときに感じた身も蓋もなさは、今に至るまでけっこう大きく響いているのではないだろうか。このシリーズは、じつによく僕に憑いている。落ちそうにない。