ホテルはドーミーインで、シネマテークたかさきの斜向かいだ。十時ちかくまで寝ていた。チェックアウトして、十三時から『アステロイド・シティ』のチケットを買う。まずは腹ごしらえだねと道なりに北上していく。宿からREBEL BOOKS までこの直線を二日間で何度も往復している。旅先で局所的に土地勘を身につけて地図を見ずに歩けるようになるのが好きだ。この直線だけでも何箇所も鬼乃子の駐車場があって、これはなんのお店なのだろうかと思っていたが、どうやら駐車場の運営会社らしい。鬼乃子の駐車場を僕は鬼乃子の利用者のための駐車場なのだと考えていたのだが、そうではなく、駐車場の利用者が鬼乃子の駐車場を利用するということだったわけだ。伝わっているだろうか。利用者は鬼乃子に行きたくて鬼乃子の駐車場を使うわけではないから、鬼乃子の駐車場を使うからといって鬼乃子の客ではないのだが、しかしその駐車場は鬼乃子の駐車場なのだから、鬼乃子の客ではある。余計にわからなくなった。ある鬼乃子の駐車場の側にあるビルの上の角に発泡スチロールで雑に作ったパンのオブジェみたいなのが突き刺さっていて、謎だった。日本一のビルの壁画を右手に眺めながら、きょうは左折。「アイリッシュ温泉」という気になるお店を発見。看板のフォントも相まって、今期ベストの味がある。どうやら居酒屋らしい。高崎はへんな造りのビルが豊富で、たぶんいまの法律では建て直したりできなさそうな風貌をしているものがずらっと並んでいる。新品のつまらないビルがすくない。看板も手書きのいい佇まいで、歩いていて嬉しい街だ。伊東屋珈琲でトーストとコーヒー。レジには醤油で煮染めたような薬棚が置いてあって、奥の座敷が客席として開放されている。廊下の向こうに庭のようなものも覗いていて、細長い階段も趣深い。構造もほぼそのまんまに使われているようで、格好いい。朝から何も食べていなかったので軽食で急場を凌ぎ、たらたら歩いて今度は向こう岸の椿食堂へ。二階の席でぶりの照り焼き定食をいただく。こちらも畳敷で床の間もあって、居心地がよくってこのまま頬に跡をつけて寝こけたくなった。お吸い物がじんわりおいしかった。ゆっくり食べていると階下からどうもBUCK-TICK の話が聞こえてくる。お会計に降りると、BUCK-TICK ですか、とお店の人が水を向けてくれて、お客さんと二言三言交わす。みんなバンドTシャツ着てるから、道行く人のどれだけが同じ目的地をもっているのかすぐわかる。
シネマテークたかさきの二階のスクリーンで『アステロイド・シティ』。予告編の映画が全部おもしろそうだった。さいきんはシネコンばかりで、うんざりするノイズばかり浴びていたから素直に欲望を喚起される予告編が新鮮で面白かった。ぜんぶ観たい。『アステロイド・シティ』は傑作だった。ウェス・アンダーソンは話としてはずっと同じ話をしていて、だからどんどんと語りの構造を複雑にする方向へと洗練させているように思える。『フレンチ・ディスパッチ ザ・リバティ、カンザス・イヴニング・サン別冊』は構造を雑誌から借用し、雑誌を作ることとそれを読むことを、失われていくものとその不完全な継承に重ね合わせ、追憶の中にしかない完璧なものを現前させる試みであった。今作で援用されるのは演劇の上演だが、編集長の死に際して雑誌を懐古するという体だった前作の入子構造は、架空の演劇を再現する本作ではいっそう複層化されている。今作はある演劇作品とその劇作家についてのドキュメンタリーとして始まる。中心に据えられるのはそこで上演されたとされる架空の芝居である。ドキュメンタリーの次元で語られる劇作家の物語はこの架空の芝居の制作と上演が語られ、俳優たちは芝居の解釈を試みている。そしてじっさいに上映された劇として展開される映画のなかで、ある俳優は自身の出演する映画についての試演を繰り返している。演技を遂行する演技を遂行する俳優を演じる俳優。解釈行為としての演技が何層も巧妙に折り重なっていて、宇宙人の来訪というじつに劇的な荒唐無稽が描かれつつも、観客のあらゆる解釈もまたうまく像を結ばないようになっている。最終盤で繰り返し謎として取り上げられたある役のある行為についての解釈はいよいよ行き詰まり、俳優の演技が複数の次元を越境するのだがこの瞬間の鮮やかさが見事だ。ウェス・アンダーソンはメタ構造をリアリティの担保やケレン味のために使うのではなく、つねに虚構を虚構のままに真実にしようという戦術のために利用している。だから外側に飛び出る劇中劇人物は、けっきょく劇の内側で完結し、われわれの世界にまでは出てこない。演劇世界の登場人物たちはしばしばカメラの捉える画角の外側に目をやるが、けっしてスクリーンのこちら側を見ることはない。ドキュメンタリーのナレーターもまた、こちらではなく、「このドキュメンタリーが実際に放映される世界」を眼差しているという意味で同様である。閉鎖的な箱庭の内側ですべてが完結する入子構造は、必然的に中心の喪失をもって幕を閉じる。この美しい世界は、なにひとつ映画館の席に座る僕たちに干渉しない。映画とは、客電が点き、ほうと溜息を漏らしながら席を立つまでの、束の間の夢である。劇的な瞬間とは、いつだって解釈しきれない、割り切れない余剰をもっている。その余剰は過剰ではなく、むしろ間の悪い退屈さとして、間抜けにただあってしまうものなのかもしれない。あらゆる場所に完璧に配置され、ほとんどすべてのオブジェにピントが合わせられたような世界でさえ、全貌を懐古するときどこかしらピンボケしてしまうようだから。BUCK-TICK やエッセイを通じて僕はずっと「演技」について考えていて、だからこの演技についての演技についての映画はたいへん面白かった。映画館を出て、とっても面白かったねえ! と声をかけようとしたら奥さんは、ちょっと寝ちゃった、けろりとした顔でそう言った。
駅の向こう側にも行ってみることにして、ヤマダ電機にはなくて、ヨドバシで双眼鏡を買った。せっかくだから倍率を変えられるいいやつを買っちゃお、とそこそこ値の張るものを選ぶ。迷ったら高いのを買う。これは代々伝わる買い物の極意。オーパの衣装展示を遠目に確認し、フードコートで焼きまんじゅうを食べる。それから群馬音楽センターまで歩いていく。
BUCK-TICK TOUR 2023 異空-IZORA- FINALO 二日目。きのうは後ろのほう上手側で、きょうは最後列の真ん中らへん。レーザーの演出はセンターラインが把握できる場所から見るのがいちばん格好いい。ビーッと光の線が空を切るたびに興奮して、鋸の歯のようになっている天井に躍る点を追いかけた。「Campanella 花束を君に」で天井の襞に打たれる花の黄色にはきのうも見惚れていた。どうも僕は群馬音楽センターのことが好きになってしまったみたいで、この空間がいろいろな光に照らされる様に喜んでいる。きのうはすこしぼやけていたボーカルがかなりクリアになっていて、うれしい。「THE FALLING DOWN」で投影されるアニメーションの線の蠢きが好きで、うねうねと目まぐるしく生成変化していく蛇や林檎に毎回気を取られがち。「太陽とイカロス」でいきなりさっと青空の明るさに目が驚くともう終盤ということなので、ああ、もう終わってしまう、と切なくなる。ばかにしていた双眼鏡はじっさい使ってみるとかなり楽しくて、目元や指先を24倍で追いかけた。これは買ってよかったなあと思うし、この覗き見の愉悦のためだけに大きな会場でなにかを見たいとまで思った。ステージ上での櫻井敦司のパフォーマンスの手癖がだんだんわかってきた気もして、わかるからこそその空間に対する能力の高さに舌を巻く。昨日も今日もMCの口数が多く、それでもやはり演技の膜を通して語られる声という感じがして、それがよかった。舞台上の人物は、決して役を落としてはならない。
夕食はPECO屋。アボカドとネギのたたき、焼肉サラダ、肉団子のトマト煮、牛ヒレステーキのタルタルをビール一杯でささっと。REBEL BOOKS の店主さんとは食べ物の趣味が合いそうだね、と奥さんも満足げだった。たいへん楽しい滞在だったな。三泊くらいでまた来たい。終電間際の高崎線でぐっすり寝こけて家に帰る。慣れ親しんだベッドに倒れ込んですぐ眠る。