2023.09.19

疲れた体をベッドから引き剥がしてから、亀を洗って、コーヒーを飲み、洗濯機をまわして、シンクに溜まった食器を洗い、荷解きをして、部屋の整頓をして、洗濯を干し、また洗濯をして、きのうの日記を書いたらもう十五時過ぎだった。こうしてようやく連休が終わった。短編小説の刷り出したものを用意して、奥さんに読み聞かせつつ語の順序や句読点の位置を修正していく。なかなか面白いんじゃないだろうかという気分になって、そのまま納品。書いているときから、これは読んでも肩こりは治らないがごきげんになる小説なのだと宣言していて、じっさいかなり機嫌がよくなる。鼻歌を歌っていて、それはBUCK-TICKの「Coyote」だったが、これさえもどこかごきげんな響きだったから相当なものだ。

夕方まで日記を書いたのだから、また今日の日記を書くというのはなかなか腰が重くて、まだ日記に移していなかったツイートを持ってきて余白を埋めておこう。

ゼロ年代の子供たちがやってた「†蛇苺†」みたいなタイトルのブログや個人ページ、これはいまだに絶滅してない「徒然なるままに」みたいなタイトルを恥ずかしげもなく掲げるブログ群、そうしたものに滲む陳腐さと頑固な自意識の共存を成立させているのは何か。最近はそんなことを考えている。

インターネットによって可視化されたマスメディアには掲載されえないクオリティの文章表現の一類型はいかにしてその型を成立させたのか。「自分は他とはちがう」と固有性を主張するために選択されたのが、どこまでもありふれた文章表現であること。これはけっこう大事なことだと思う。陳腐さを揶揄するのではつまらない。揶揄こそが既存のコードに無批判に乗っかったありふれた一反応である。個個人が固有性を志向した結果、どこまで意識的かはともかく積極的に共通の型を獲得し陳腐化していくというのは別様の「内面」だとか「私」の開発であり、それらを醸成する共同体の制作である。

僕は「自分の言葉で」みたいな言い方があまり好きではなくて、言葉は個人所有とは馴染まないものであるということを看過するような物言いをする人が言葉を使いこなせるはずがないと思う。でも一方で、道具の扱いに習熟するというのは、道具と自分との輪郭が溶け合うような感覚があるものとも思うから、まあいいのかもしれないとも思う。

珍奇や奇抜や卓越なんかよりも、示し合わせた自覚もないままに局所的に共有されてしまう美意識みたいなものの陳腐さのほうが不思議で変だ。なんか書くときには「あんま読んだことないけど陳腐」「平凡なのに奇妙」「安易だけど新鮮」みたいなものを目指したい。そう思っている。今回の小説だってそうだ。

奥さんは胃腸の不調が長く、連休中の豪遊はなんとか楽しめたが家にいるとすべての発話に溜息が伴うし、顔つきも生きていても何一つ楽しいことなどないという不景気さで可哀想だ。夜はお好み焼きで、僕は買い出しに行ったから奥さんがキッチンに立った。山芋でふわふわにするやつだ。四枚焼いてくれて、三枚目までをはんぶんこしたところで奥さんは、もうだめかも、とこれまでより大振りな最後の一枚をほとんど僕に寄越した。それからぐったりと横臥して動かない。たらふく食べた僕はうとうとしながら本を読んでいた。

柿内正午(かきない・しょうご)会社員・文筆。楽しい読み書き。著書にプルーストを毎日読んで毎日書いた日記を本にした『プルーストを読む生活』、いち会社員としての平凡な思索をまとめた『会社員の哲学』など。Podcast「ポイエティークRADIO」も毎週月曜配信中。