書き終えてしまえば本はもはや他者であるので『『ベイブ』論』をどう売っていくかを考える段階に入ったのだが、売り文句を作りだすとそれがそのまま次の本として制作の開始となっているような感じがある。『『ベイブ』論』は『会社員の哲学』の精神的続編である、というのが売り手としての言い方なのだが、これはじっさいにそのとおりで、となるともう一冊必要になってくる。おって説明するが、いわば「中間管理職三部作」が遡行的に構想されていくようである。これまでのZINE ではまず会社員を、今回は映画を通して「父」なるものをとっかかりに男を考える端緒を示したわけだけれど、これはどちらも現行の資本主義という社会システムのなかで弱者とも強者とも言い切れない中途半端な存在である。一労働者に過ぎない正社員は資本家と較べれば明らかに弱者であるが多くの非正規労働者や技能実習生のようなより困難な状況にある労働者と較べれば明らかに強者である。男もまた家父長制のへばりついた現行の社会システムにおいて明らかに構造的優位にあるわけだが、これまた大半の男性は疎外され搾取される存在でもある。誰もが弱っていて疲れ切っているから、誰も「父」を引き受けようとしないというのが僕の一貫した問題意識であるような気がする。で、この「父」とは中間管理職的なものとして言い換えていくと見通しがよくなるんじゃないかというのがいま考えていることなのだ。
弱い立場にあったものがちょびっとだけ出世して中間管理職的なポジションを手に入れると、ふつうであればより強い立場とより弱い立場との板挟みになってしょぼくれるわけだが、大半の人はそのような「ぱっとしない中間管理職」という自己像を敬遠する。格好よくないし、割り切れないからだ。弱い立場にあるものは、逆説的にその弱さを武器に強い立場に対する異議申し立てやシステムの是正を求めることができる。強い立場にあるものは自身の構造的優位を保守するために構造をよりいっそう強化しようとする。そのあいだにあるものは、両者の橋渡しや調整をすることを求められるのだが、「ぱっとしない中間管理職」を担いたくない多くの人々はここで、自身の特権性を覆い隠す形で弱い側の抵抗のナラティブを用いる欺瞞に陥るか、自身もまた被支配層にあることを見過ごし支配者の論理を内面化しより弱い立場にあるものを抑圧するような醜態を晒すか、そのどちらかの極端な態度に安住してしまいがちである。いまの社会はダメだよねという意識をもっている会社員やシスヘテロ男性は、きちんと中間管理職のダサさや地味さを引き受けないといけないよ、というのが一連の本で僕がやりたいことな気がしている。大事なのは、中間にあるものは両極の調整をするのだというとき、両方の言い分を半分ずつ聞くような、偽の中立に陥ってもいけないということだ。自分が相対的優位にあることを誤魔化さず、そのような優位性を成立させている構造に抵抗することは可能である、しかしそれはおそらく耳障りのいいユートピア論とは異なり、いまよりはすこしマシという程度の着地をめざすものであるだろう。
「父」とは、個人にとってもっとも内側にある外部である。ただそのままで存在してくれるだけでうれしい、という肯定の場において、それでも他者との共存のためには少なくない疎外を受け入れる必要があるという社会の論理を代弁する役割を担っている。「父」は、「子」の存在を無条件に肯定する安全圏である「家」を確保するために社会から資源をとってくるのと同時に、「子」が「父」になるために必要な社会における規律を教えなくてはいけない。社会から切り離された閉鎖空間を制作しつつ、外側にある他者たちの代弁者をも演じなくてはいけない。「父」は「子」からの反発と抵抗を引き受けるというだけでは足りない。「子」の抵抗の足掛かりを作ってやることまでが「父」の役割なのである。
こんな労多く報われないことが決まっている「父」の責務を受け入れたくないから、人はいつまでも「子」の顔をして抵抗の身振りに熱中し、ほんらいその抵抗を受け入れるべき官僚たちもまた、国家の「子」のような顔をして「父」の座から逃れようとしたり、あるいは不完全で有害な「父」に居直り一方的な抑圧に終始し、「子」のための肯定の場を制作するという「父」の責務のもう一面を放棄してしまう。だからこそ、「父」の楽しさや格好よさを誉めそやす理路を確保し、みんなでこの空位を分担して埋めていくような未来を描けないかしら、というのが今後のZINE の目指すところとなるだろう。
すごいな、日記のほかに書くものがないとじゃぶじゃぶ書いちゃう。きょうは新しい眼鏡の受け取りにもいって嬉しかったのだけど、こちらは録音で充分はしゃいだからまあいいか。
