朝起きたらテンプレートをいじって壊してしまったNotion 版ツェッテルカステンの補修およびカスタマイズの方法についてすっと道が開けて、久しぶりに睡眠によって活路を見出すタイプの頭脳労働じゃん、と面白かった。目覚めが爽やかで、それは諦めて寝坊したからでもあるのだが、おかげで気分もよく、課題解決さえできるのだからすごいものだ。早速あれこれいじくりまわしてすっかり直った。やったね。あとは膨大な日記のストックを、そのままデータベース化できないかという独自の悩みをどう解決するかで、これはまあ焦らず運用から考えていけばいいようにも思う。できれば各種ノートと同じタグ付けを施して、あるテーマについて過去に試行したあれこれを参照できるようにしておきたいのだけれど、これからの日記はただ書く場所を変えるだけで済むけれど、既存の日記の引っ越しはすこし手間だろう。しかしどこかで手間をかけてやっておくとかなりいいような予感もある。これはなんというか、頭の模様替えのような楽しさである。
社会システム理論で有名な社会学者ニクラス・ルーマンという人は、30年のキャリアで58冊の本を出したという傑物だそうだ。ほとんど年に二冊というハイペースで、これは文筆家柿内正午のZINE制作のペースに近い。しかしルーマンは研究書をこれだけの速度で書くわけで、やはり異形である。かれはその知的生産の方法を木箱Kasten に収められた情報カードZettel によるものであると公言していたらしい。木箱のなかのカードは相互参照のネットワークを有しており、ミニノートが独立せずつねに関係しあうことで創発されるアイデアがそのまま本として生成されるというわけだ。これはルーマンの社会システム理論の骨子そのものである。などと、ルーマンを一文字も読んでいない門外漢の僕などは感心する。根拠は大澤真幸のコンパクトな要約しかないのだからいい加減なものだ。
ルーマンは、二十世紀終盤に活躍した理論社会学者である。その社会システム理論は超難解。理解のためには、理論を駆り立てているモチーフを知る必要がある。私の考えでは、ルーマンが試みたことは、理論の前提から「神」を完全に排除したとき、社会はどう記述できるかの探究である。……というと、社会科学はみな神など前提にしていない、と反論されるだろう。
しかし、どの社会理論も「人間が社会をつくる」と考える。このとき人間は、あたかも創造主のように社会の外に立ち、社会を操作できるかのように、思い描かれる。そう、「人間」という概念のうちに、ひそかに神の役割が転移されているのだ。
というわけで、ルーマンは、徹底した反人間主義の立場をとる。彼は、理論から人間概念を追放した。社会システムの要素は人間ではない。では何か。コミュニケーションである。
社会システムは、コミュニケーションだけで成り立っている。そして、コミュニケーションは、ただコミュニケーションを通じてのみ生成される。このように、要素間のネットワークを通じて要素を生成しながら、自分自身を構築するシステムを、自己創出(オートポイエーシス)システムと呼ぶ。ルーマンの理論は、社会システムを、自己創出システムの一種として記述するものだ。
大澤真幸「ニクラス・ルーマン「社会システム理論の視座」 人間不在、社会自ら生成」https://book.asahi.com/article/14523604
日本語で読めるツェッテルカステンの紹介『TAKE NOTES!』もまた、白紙から独創的に立ち上がってくる文書というロマン主義を徹底的に廃し、とにかく膨大に書いたメモがお互いに関連を見出していく、そのようなネットワークを構築することからしか書くことは始まりようがないという態度で一貫している。つまり、ひとりの脳内であれこれと考えるのではなく、外在化させたテキスト群の関係を点検するようにして書けということだ。
ノート術みたいな本は定期的に読みたくなって、そのたびに模様替えを行っている気がする。読書猿の諸作や、倉下忠憲『すべてはノートからはじまる』などを読んでは何かやった気になるのであるが、じっさい彼らの本にすでにツェッテルカステンも紹介されていたような気がするのだが、まったく引っかかりがなかった。ここにきてようやく自分の問題意識と合致する方法として前景化してきたということだろう。本はどれだけ注意深く読んでも、けっきょく読みたいところしか読んでいないものである。だからこそ、ノートをどのように残し整理しておくかというのは重要で、いまの自分の読解力を信頼しないというか、盲目と洞察を両方まとめて先へと送っておくことが肝腎なのだとようやくわかってきた感じがある。これまでは日記をとりあえず書いておけばいいや、だって散らかっていてもじぶんなりの秩序は見出せるもんと思っていたけれど、だんだん失くしものが増えてきて、過去の自分が何を考えていたのかわからないことが増えて、整理整頓に勝るものはないと思い知るようになってきた。
休憩時間には友人というか敬愛する先輩の単著を読み終えた。蛙坂さんはつねづね実話怪談には「脳のバグ」と「世界のバグ」の二種があるというようなことを提唱されていて、ほとんどは前者なのだが稀に後者としか思えないものがあり、そういう話に出遭うのは僥倖であると、そこまで言っていたかは覚えていないけれど、薫陶を受けた僕自身はそう思っている。『怪談六道 ねむり地獄』はタイトルの通り、夢と現実のあわいを主戦場として構えている。夢とは、脳と世界の境界がいとも簡単に攪乱される場であるから、この作家の初単著の枠組みとしてこれほど相応しいものもあるまい。収録されたものなかに直接お話しを聞かせてもらったものがあり、話し言葉から書き言葉へと変質していく実話怪談ならではの面白さを存分に堪能したのだが、聞き覚えのある話がいやに多い。こんなに沢山は聞いていないはずなのだがと不気味だったのだが、おそらくブログで発表されたものを「聞いた話」と錯覚していたようで、この現象もまた興味深かった。実話怪談というエクリチュールの記憶は、どうもパロールとして残るようだ。いや、夢で訪れた怪談イベントであらかじめ聞いていたという可能性もまだ捨てきれないのだけれど……
作業用のBGM にこれまでポッドキャストを聴いていたのだけれど、週末に宮崎さんと話していたのや、宮崎さんのラジオにお便りを出したのも影響してだろう、きょうはkindleで『日本近代文学の起源』をiPhoneの読み上げ機能で「聞く」というのをやってみた。いまあるものを必然として捉えず、起源において「こうもありえた」ということを示していく論は非常に刺激的で、思えば、実話怪談も「いまのようではなく、こうでもありえた」というような感覚にこそ昂るのであって、だからこそノートの方法もまた周期的に見直されるのであろう。あらゆるものは、こうであると必然化された途端につまらなくなる。偶然こうであるだけで、べつの偶然によっていつだって別様に書き換えられうるという換気のよさをなるべく維持しておきたい。
ほら。よく寝て、書く環境に手を入れ整理していると、それだけで活性化して日記もこんなに書かれてしまう。睡眠とノートはすべてをごきげんにブーストする。思い返せば、きのうは愚図愚図の状態を脱しようとしゃにむにダンベル運動やストレッチを行ったからこそ眠りの質がよかったわけで、であればやはり運動も大事なんだろうね。
