きょうは一日中25°を上回ることもなく、部屋もやけに寒くて家なのに靴下を履いた。僕は帰宅するとすぐさま靴下を脱ぐのが日課であるほどに靴下が苦手なのにもかかわらずだ。暴力とおっぱいが見たくて、『沈黙の戦艦』を観た。初めてのセガール。正直話としてはあんまり面白くないのだけど、エリカ・エレニアックがとてもチャーミングで、ませた子供だったころは映画のなかの誰かにすぐ恋していたから、あと五〇年もしたら呆けきって、幼いころは木曜洋画劇場で見たエリカ・エレニアックに憧れたものじゃよ、などと独りごちていそうだった。というか、いますでにそのような錯覚に陥っている。過去の自分というのは現在と並走しており、そこにおいて何かが響いているような感覚があった。いまの僕は、最後のキスシーンは要らないだろ、などと醒めているのだが、おなじところでかつてこの映画を観た子供が胸を熱くしていたかもしれない。
この数日は鈴木登美『語られた自己』を面白く読んでいて、きょうはお休みだったのでここにさらに大岡信『日本の詩歌』を混ぜて、そこから派生して大谷能生『歌というフィクション』にも手を出した。『語られた自己』を終えたら次は渡辺浩『明治革命・性・文明』を始めるつもりだ。とにかく僕は明治期に政治や文学の現場で試みられた思想の近代化と、近世までの詩歌論に関心があるようで、前者は明確に日記や随筆への関心の延長にあり、つまりは現状認識のための道筋で、後者はもう一面の可能態を歌に見出そうとしているのだと思う。『日本の詩歌』はさらさら読めて、最後の講義の題材が歌謡だったからこそ大谷能生へと移行していったわけだ。いま六〇年代の学生運動の文脈を引き受けた人たちの論を読むというのは、すっかり政治的文脈が歴史上の他人事のような距離を隔ててしまっているからこそ、明治期の諸実践と同じような感覚で検討することができるのだなと面白い。
「会話」としての言語活動は、その一方の端を、現実の有用性に合わせて刻々と変化していく「行動」=「運動」の系に属させているものだが、ぼくたちはそこにあるコトバをドレミというシステムに傾けることで、あるいは、反復されるリズムに浸すことで、〈実際的な行動の拘束〉からそのコトバたちを一歩退かせる。現在と過去が成立するためには〈主体〉と〈場面〉と〈素材〉が必要だが、音楽という繰り返される行為=時間の閾の中にそれを巻き込むことによって、ぼくたちはその三条件のどれかが欠落したまま何度でも、未来において、あるいは過去において、自分が誰かと「言語活動」を成立させることのできる〈場面〉を「待つ」ことが可能となるのである。
(…)まだ成立していない無数の「言語活動」が、反復される音楽の閾の中でその実現を待っている。(…)
大谷能生『歌というフィクション』(月曜社) p.29-30
「近世・近代・現代を貫く日本語詩歌論。」という帯文に惹かれたのと同じくらい、同じく帯に印字された「まだ成立していない無数の〈言語活動〉が、反復される〈音楽の閾〉の中でその実現を待っている。」という、本文と括弧の使い方が本文とは微妙にちがうこの文言に、なんか格好いい〜と思ったのも大きかった。これは時枝誠記の言語論、プラグマティックに人間の行動に一元論的に還元するような形で言語をとらえる考え方を引きつつ、ベルクソンの『物質と記憶』を混ぜ合わせながら考えている箇所である。時枝にとって言語とは、発話者(〈主体〉)がある事物、概念、意思などの〈素材〉を聴き手(〈場面〉)に向かって伝達しようとするとき、三者が相互に作用することではじめて成立するものだとした。行為の現場において行為として実現するのが言語活動であるということだ。ベルクソンは行為というのは身体を中心にして起こるものであるという。身体は外部にある物質世界から影響を受けつつそこに何らかの変化を及ぼす能力ももっている。身体のとる行動の範囲が広がることで、人間の知覚できる領域も広がっていく。物質世界に潜在する過去を身体において呼び出すことで、人は有用な行動を起こすことができるのだが、このように身体レベルで道具的に作用する知覚というのは、ただそこに存在し想起されることを待っている過去にアクセスすることはできない。知覚は行動と結びつき身体において実現するが、想起は精神において実を結ぶ記憶としてありうるものだ。そして、大谷は歌というのは身体=行動の次元において反復することで、精神=記憶を召喚する空間を制作し、身体にとっては不可能な想起を試みるような行為であるといっている。具体的な宛先となりうる身体、〈主体〉や〈場面〉となりうる身体が欠落した状況において、未然の「言語活動」がその実現を待機する場所、それが音楽なのであると。
──まだあまりこなれた要約になっていないが、こういうもやもやした概念の遊戯は楽しい。なんか言った気になれるから。しかしちゃんとなにか言おうと思えばもうすこししっかり読まねばなるまい。今ぼんやりと考えているのは、ここでいう音楽は小説という時間芸術があるとき〈主体〉となる誰かに読まれるという〈場面〉においてはじめて成立するのと似ているということで、たぶん僕の関心はつねにそこにある。
日記の利点はこういう、きれいなメモにすらならない文章との格闘をそのまま不細工に残しておけるということで、『語られた自己』のようにすぐれて明晰で理解しやすい本はある程度きれいに要点をまとめてノートにしたり自分なりの考えとして頭にしまってしまえるから、日記として登場することは少ない。あるいは、読んでいる最中ではなく、読了後にさっとまとめるような書かれ方になる。しかし、じっさいに血肉になるのは、日記において熱狂しているような本よりも、黙々と読まれる本の方であったりする。
