昨晩は奥さんとSteam で「ミスター・クーのいろいろ」を遊んでいたら猛烈な眠気につかまれて、日記を諦め早々と眠った。それは77点の睡眠で、あまり寝た気がしなかった。ゴダールのように慌ただしいモンタージュのような夢を見た気がする。ツェッテルカステン生活をはじめてまだ三日目とかであるが、読書に対するスタンスも、日記に対するスタンスもわりと劇的に変わるようだった。まず読書については読んでいる本についてメモやノートを残すようになった。これまではざっと読んではしから忘れていって、たまに日記に引用するくらいだったのが、これからは概要だけでも残しておくかというように意識になり、引用箇所周辺をメモしたり、読了したらそのままばばーっと全体を眺めながらノートを作ったりしている。つづく数段落は『語られた自己』についてのノートから抜粋。
「私小説」というシニフィアンはひろく普及しているし、議論も活発であるが、じっさいのところそのシニフィエを確定できない曖昧なものである。
この語は一九二〇年代の初頭から半ばに現れたもので、元来は作家が自身の私生活を限られたサークル=文壇に向けて披露するようなスケッチを指していたが、すぐさまより広い射程を持たされた。その後、一九六〇年代ごろまで強力な影響を及ぼし続けることになる。
私小説の実態や系譜について。これらはむしろ私小説言説によって遡及的に構築されたものである。このように遡及的に構築されたのは、日本近代において創造された自国の「伝統」でもある。どういうことか。「私小説」は日本において独自に表出した文学であり西洋と対照をなすものであるとして、その成立の基盤には日本の「伝統」的な価値観や社会構成があるのである、というような考え方は、むしろ私小説言説によって初めて創出され、見出されたものであったということだ。
元来、近代ヨーロッパにあっては自明であったナラティブの峻別は、日本においてはコンセンサスが確立していなかった。フィクションと自伝を区別するような作者と読者の間の契約関係が成立しないため、もっぱら読者の態度が最終的な審級となる。畢竟、私小説とは読みのモードである。作品に「内在的な」特徴ではない。私小説とはひとつのパラダイムであり、イデオロギーに浸されている。ある一時代のパラダイムに規定された読みのモードが、遡及的に過去にまで影響を与えほとんど支配的になっているのが現状である。つまり、西洋的近代の文化的ヘゲモニー──「自己」や「私」(I, self)という概念──が、「小説」という文学ジャンルに託された特権的な位置において探求されたとき、実生活の諸相における「真実」を「直截」に書き取るべしというような価値観があたかも自明のもののように考えられている。
以上のような問題意識のもと、田山花袋や志賀直哉のような「私小説作家」、永井荷風や谷崎潤一郎などの「反私小説作家」の諸作品を精読し、両者がともに養分を送り込んでいった「私小説言説」の成立過程を明らかにしようというのが『語られた自己』の骨子である。とくに谷崎は、そのキャリア自体が「代替物日本における獲得不可能な真の西洋の探究」と「みずからの失われた起源と自己同一性の再発見あるいは再創造」という私小説言説の相補的な二つの力を隠喩的に縮約しているとして集中的に論じられる。
最後の段落は日記のための加筆だ。日記に対する態度変更は、このように別に作る読書ノートからの抜粋をするとき、自分だけが読むものでなくなるという意識からかノートのリライトがなされるということで、日記はただ日記だけで一筆書きをよしとしていたものが、読書ノートをリライトして日記に移入、その内容をノートに上書きする、あるいは、読書メモとしての日記をリライトした上でノートに転記する、というように、複数のノートを相互に行き来しながら何度も書き直されるというようなことが起きてきている。まあまだ三日目とかなので、はじめたての興奮でしかなくてすぐに飽きるかもしれないけれど。あと、なにかしらは毎日書くという構えじたいは変わらないのだが、ノートを書いたから日記はまあいっか、とあっさり諦めて寝ちゃうということもやりやすくなる気もする。じっさい昨晩は寝て、朝と晩に二日分の日記をこうして書いている。一日のうち書いている時間や総量は増えるが、そのぶん日記は引き移すだけで済ませることもできてすこしだけ手が抜けて、しかも読む時間はあまり変わらない──どうせ集中力の持続時間はたかがしれている──というのだから、だいぶお得感がある。
「ミスター・クーのいろいろ」はじっさい一日で遊びきれるボリュームなのだろうが、昨日寝てしまったので今日クリアして、その幕切れのあっけなさに、ええっとふたりとも声が出た。すこし不服だったが、お洒落な引きに簡単に満足してしまった。ペダステのインハイ一日目みたいな格好よさがあった。割と好きだが、なんでもありの世界観での謎解きは、ヒントなしにはどうにもならないな、という不満もある。自力でやれた、という達成感はほとんどなく、仕掛け絵本を味わうような遊び心地。これはこれでいいのだろうとも思うが、だったらもう少し簡単にしてほしいというか、導線に親切や納得感が欲しい。