2023.10.08

必要を根拠とすることのできないものはより美しくなければならない。効用を根拠とすることのできないものはより魅惑的でなければならない。

定本見田宗介著作集1『現代社会の理論』(岩波書店) p.37

電車のなかで再読していた本の一節に打たれた。これは見田が高度に発展した資本主義社会を、〈情報化/消費化社会〉として捉えなおし、その光を検討する章の一節である。マルクスの時点で労働に与えられた「二重の自由」は、生産の過剰によって必然的に恐慌に至る資本主義システムの瑕疵の原因として考えられていたが、現代においては欲望の次元においてもこの「二重の自由」が実現したことで、原理上汲み尽くせぬ美しさ、楽しさの空間がひらかれたのだという。

生産ではなく、消費が経済をつくる。そして、消費は絶え間ないモードの変転によって、供給が需要を上回るよりも速く次なる欲望を喚起する。そのような必要にも効用にもよらない欲望を惹きつけるには、それ自体が魅惑的でなければならない。より美しく誘惑するものが勝つ、美的感覚を通じて幸福を追求する競争の場としての社会。

つぎつぎと欲望に誘われ、動物的に消費に励むわれわれは、しかし不幸であろうか。資本主義という機構にすすんで餌を与え続けるわれわれは、はたして愚かであろうか。〈大衆が消費することは、それが資本の増殖過程の一環をなすからといって、それが大衆自身のよろこびであることに変わりはない〉。

牧畜業者は、自分の投下した資本が回転し増殖するサイクルの内の決定的な部分を、家畜自身の食欲と生殖欲とに委ねたままにしておくことができる。むしろ牧畜業者にとって、資本のこの拡大再生産は、家畜自身の旺盛な欲望にこそ依存している。 家畜のよろこびは牧畜業者のよろこび、というわけである。「家畜が餌を食うことは家畜自身のよろこびであるからといって、それが資本の再生産過程の一環であることに変わりはない」。『資本論』のマルクスはこう記している。ここでマルクスは、大衆の消費の過程のことを語っている。

ここでマルクスの言っていることは正しいけれども、この命題は、同じ資格で、反転してみることもできる。つまり家畜が餌を食み、生殖欲求をみたすということは、牧畜業者の資本の循環の一環をなすからといって、それが家畜のよろこびであることに変わりはない、と。あるいは〈大衆が消費することは、それが資本の増殖過程の一環をなすからといって、それが大衆自身のよろこびであることに変わりはない〉と。

そこにはただ牧歌的 (pastoral) な共存の関係があるだけだといってみることもできる。

昆虫と顕花植物は、動物界・植物界のうちで、最もめざましい繁栄をとげた分岐であるが、それは相互に、自分を相手の再生産のサイクルの内の不可欠の一環とすることをとおして実現された。蜜蜂の生は、レンゲやナタネの生命の再生産の一環に組み込まれているが、蜜蜂は花蜜のにおいに酔わされたままでいること、誘われたままでいることに、幸福を感じているはずである。 幸福という意識はないかもしれないが、 人間が幸福という意識を意識するときの身体的な基底にあるはずの、感覚を感覚しているはずである。

花の色彩と蜜の味とは、人間がこの世界の中で、美しいもの、幸福なもののメタファーの原基としてきたものだけれども、それらは、誘惑の必要からのみ、生まれたものである(真木悠介『自我の起原』「定本第Ⅲ巻])。

同書 p.37-38

2010年代に就活のただなかにいた僕を支えた論理は、見田宗介のこのような言説と菊地成孔の「粋な夜電波」であった。それらの享楽的な楽観に当てられることで、この世で金を稼いで楽しく美しく暮らしていくんじゃ、という気分を盛り立てていったのだし、それは左翼にかぶれた青年が、清貧などといった欺瞞に偏らず、ひとまず自身の欲望をとっていいのだという選択をなんとか自身に許すための演技でもあっただろう。いまなお僕はその振り付けの最中にある。

引越し先を検討するためになんとなくいいなと感じている町を歩いてみる会、その初回が開催された。本日は白楽から六角橋商店街方面へと坂をくだっていってサリサリカリーを食べる。何年も前は平日だったから客は僕一人で、何も言わずに奥からよぼよぼの老夫婦がサラダとカレーとチャイをサーブしてくる、その空気感にやられてしまったが現在はあるいは休日はけっこうな人気店らしく並んだ。店員も代替わりしたのだろうか、顔ぶれが変わっており、奥さんは初めてだったし、美味しいのだが、僕が家で再現しようと作ったなんちゃってサリサリカリーのほうが遥かに美味しくて、ふたりとも驚いた。すでに師を超えていたのだな、という寂しさがある。業務用スーパーを確認し、住宅街を歩いてみた。坂道が魅力的で、ぐねぐねとすこしも直線がないのでおこもり感がある。生き物の棲家とはこういう環境であるべきだよなあと思う。小雨が降っていたが元気だった。坂の上の高そうな家々の林立するエリアに迷い込み、駅へ抜けた。池のある公園には蓮の花が咲いている。Tweed Booksに立ち寄ると、いつかの日記を読んでお店に立ち寄ってくれた方がいたらしいと教えてもらった。しかも京極夏彦を買っていったとのことで、嬉しいことだった。この日記を読んだ誰かを本屋や本へと誘うことができた。この日記に効用があるとするならば、これ以上のものはあるまい。文楽を通じてポストモダンな身体を考えていそうな本と、ドゥルーズのインタビュー集のお買い得なやつと、そろそろ読んでみてもいいかと機運の高まってきているデリダ、さらにはがらっと趣を変えて快楽亭ブラックの評伝をいただいていく。奥さんはシェイクスピアまわりを物色していて、逍遥訳の『むだ騒ぎ』を買っていくことに。シェイクスピアなら、と全集とセットになっていたという木箱や、洋書の絵本などあれこれと見せてくださる。きょうも楽しかった。やはり好きな本屋が近所にある生活というのはすごくいいのではないかと思うのだが、このへん図書館なさそうだから、そんなことでは部屋が埋もれるというのももっともなことだ。(奥さんへの私信:ここにクレープ屋の名前を入れてください)CREPE URARAに並んで、店主の方だろうか、おひとりでふたつの鉄板と冷蔵庫の上の作業台とレジを滑らかに移動しつつ、細分化された各動作を並列処理することで同時に三組くらいのオーダーを段階的にこなしていて、Instagramのおすすめに流れてくる流れ作業の鮮やかな動画みたいで見惚れてしまう。クレープははちみつレアチーズとかぼちゃの二種を分けっこして、たいへん美味。妙蓮寺まで歩いて、あまり時間がなかったのでオーケーだけチェックする。これはまた来て確認したいことがあるな、クレープもまた食べたいし、とすでに算段を始めている。僕はだいぶこのへんへの引越しに乗り気。品川へ急ぐ。

『最遊記歌劇伝-外伝-』観て、演出は映像で観た過去作からずっと、常にかなりダサいんだけど、ダサいからこそ泣けるという部分もあり、90年代から00年代にかけてのふたつのディケイドで花咲きそして散っていった価値観の再考の必要を感じた。当時は子供ながら醒めた距離を置いていたけれど、いま見るとその格好よさもわかるというか、嫌煙のヘゲモニー下でようやく煙草のうまさを言う意義があきらかになるような感覚があって、しかしそれは、他人を害してでも自由に生きるというようなあり方が──少なくとも己の生活圏内において──失効してきたおかげで、ようやくファンタジーとして享受できるということかもしれない。そもそも外伝におけるかれらは殺す側でなく殺される側であるというのも大きいかもしれない。だらっといつまでも続く退屈な日常に白けきっているからこそ、劇的な死を夢想する。何か命を賭して守りたいもののために死力を尽くして気持ちよく死んでしまいたい。そういう欲望は、じつに過去の時代の美意識であるな、そしてそれは自分にとっても今もなお何ものかであることだな、などと思った。『『ベイブ』論』から、男性について考え始めているからか、『最遊記』の有害で魅力的な男たちについて何かもっと言えることがあるような予感がある。これはまた時間をかけていこう。

『外伝』を観たからには焼肉を食べるしかないだろう。焼肉を食べながら、AirPods を半分こにしてBUCK-TICK のライブ映像を観ていた。終電で帰りながらも配信期限ぎりぎりまで観て、なんとか完走できたのでよかった。風呂に入って日記を書くと二時を過ぎている。不健康なことだ。10年代以降、あきらかに健康の時代だ。だからこそ、じつにうまそうに煙草を吸うやつらに何かを託そうとしてしまう。僕は煙草はやらないが、酒や夜更かしは続けるだろう。それが美しく魅惑的である限り。

柿内正午(かきない・しょうご)会社員・文筆。楽しい読み書き。著書にプルーストを毎日読んで毎日書いた日記を本にした『プルーストを読む生活』、いち会社員としての平凡な思索をまとめた『会社員の哲学』など。Podcast「ポイエティークRADIO」も毎週月曜配信中。