がんばって七時台に起き出して、コーヒーと軽食の余裕はあった。ひとつ乗り換えたらもう未知の路線だ。成田に向かう電車はどんどん景色が緑緑してくるから心細い。柄谷行人のマクベス論を読んでいて、たいへんに面白い。マクベスは未来の観念によって現在の確かさを失効し、虚しい偶然へと追いやられていく。
人間は「哀れな役者だ」と、マクベスはいう。この役者にはいわば楽屋というものがない。「見かけの自己」と区別される「真の自己」というものがない。ソンターグは、「アキレスやオイディプスは自分自身を英雄あるいは王者と見なすのではなく、英雄や王者である。だが、ハムレットやヘンリー五世は自分自身を役割を演ずるものとして──復讐者の役割を演ずるものとして──見ているのだ」と書いている。しかし、いうまでもなくマクベスには、自己を劇化するというような自意識はもはやとるに足らないものに見えていたのだ。
彼は何かを演じたつもりだったが、実のところ演じさせられているだけだ。役者というよりも操り人形だ。人間は演技などできやしない、人間に自由な意志などありやしない、という恐ろしい意識がマクベスに訪れる。何やらわめき立ててきたが、結局なるようになっただけじゃないか、という考えが。
だが、マクベスはこの考えを受けいれることができない。いいかえれば、彼はなぜこういうことになってしまったのか解せなかったが、ここにこうして立っているということ自体をちぐはぐに感じており、どうしても許容することができないのである。彼が許せなかったのは敵でも裏切分子でも魔女でもない。「哀れな役者」としてここにいる自分自身である。マクベスに最後に残っていたのは、たとえすべてが悪夢であったにせよ、この悪夢に対して異和を感じつづけている自己意識であって、それが彼をこう叫ばせる。《宇宙なんぞ崩れてしまうがいい──警鐘を鳴らせ──風よ吹け! 破滅よ来たれ! せめて鎧をつけて死のう》。
柄谷行人『意味という病』(講談社文芸文庫)
予定説めいた「必然」の物語へと絶えず現在を疎外して、自らの行為を取るに足らない偶然として無力化するほかないマクベスが見出すものこそが、現実とは無関係に駆動する驚くべき内面である。かれは必然という観念とその観念への違和として表出する内面によって苦悩し、意味を拒絶するに至る。マクベスは「悲劇」ではない。「悲劇」とは、われわれを意味へと絡めとる罠、「無意味から意味の回復へ、自己疎外の極から自己実現へ」という「自己と世界との間に見せかけの距離を設定した上で和解へと導く」「からくり」である。マクベスはこれを拒絶しようとしたのである。
成田空港について、たらたら廊下を歩かされる。出発2時間前「までに」チェックインが必要なのかと思い込んで2時間半前に着いてみれば出発2時間前「から」受付開始だった。ビビりすぎた。きのう京都であったらしい岡真理「緊急学習会 ガザとはなにか」という緊急学習会の録画を見る。
飛行機は重力への注意が研ぎ澄まされる。なぜ空中でナナメを感覚できるのか。
地図上で線路だと思っていた線が大通りだった。本と羊を西の端として徐々に東へ向かえばよいと思っていたのだけど。六本松から博多まで計一時間程度。うん、歩くか!
本と羊で居合わせたお客さんに文フリの説明をしている流れで『ベイブ』の話をすると知らないという。95年の作品だもんなあ。マッドマックスの人のやつというと伝わった。これはやはり作る意味のある本だった。『ベイブ』再発見のため、おれはやるぜ。知らない町を歩くと名古屋みたいだなと思う。小島信夫にとってすべては岐阜だったのと同じように。北に向かって歩いてけやき通りに出て本屋月と犬、ブックスキューブリックと巡る。下北沢のお客さんに教えてもらったバルトの『偶景』があったので嬉しい。北西に向かって歩いて本のあるところajiro 。イベントで入れず。いちど薬院まで南下して気になる服屋に行ってみるとやってない。着もちいい服が気になっていて、でもディスプレイを覗き込んでみたところシーズンごとに精選していそうで、デッドストックはなさそうな感じもあるので諦める。無理に東へ突っ切って住吉通りに出て那珂川を渡って博多の方の宿にキャリーを置きに行く。二万歩程度歩き回ると街の相貌の切り替わるところが見えてくる。けやき通りあたりまでは歩行者にやさしくて、天神まで出ると歩きにくいがこれは車よりも繁華街であるからで、しかし大通りの方が車が怖くないというのは不思議だ。信号も天神のほうが長く待たされる感覚がある。やたらと裏通りを歩きたがるせいか、コインランドリーと煙草屋が目立つ。どこの軒先にもうまそうにヤニ吸うじじいがいる。あすの会場まで歩くと20分くらい。ためしに天神まで歩いてみる。歩きにくそうだったら電車を使おう。中洲を突っ切る形になり、このあたりは歓楽街。道行く男たちの格好を見るに、僕のような前髪のうざったいやつはモテなさそうだ。洒落のめした髪のこざっぱりした男が多い。目元や輪郭に土地柄というのは出るもので、しゅっとした渥美清みたいな顔がたくさん闊歩してる。渥美清は東京生まれのはずだが。人相学、ルッキズム。あしたは電車かなあ。
天神のパルコで友田さんと合流して、餃子で腹ごなしをしてからブックバーひつじがへ。とても楽しい遭遇がいくつもあって、来てよかったな、と満足する。二五時ちかくまで飲んで、歩いて宿へ帰る道のりで日記を書く。