2023.10.23

九時半くらいまでよく寝る。耳栓ありがとう。枕元にお水を用意しておいたきのうの自分もありがとう。チェックアウトが一〇時なので顔を洗ってロッカーの荷物をまとめるとわりとぎりぎり。おなかが鳴った。よさげなお店を検索し、博多の地下街にあるカフェミエルというところに行ってみる。大当たり。サラダもいい感じで、草が美味しいというのは大事なことだった。ホットサンドのマスタードエッグもいい塩梅。なによりコーヒーがとびきり。もともと有名なハニー珈琲という店を引き継いだ形らしい。カウンター席でポメラを開き日記を書く。あいまに店主が話しかけてくれて、文フリのことやら本を作ることみたいなのをぺらぺら喋って、個人店の経営みたいな話で応えてくれて、それは五千年規模で遡って易経やら儒学から松下幸之助に至る遠大な文脈を描きつつ「思いやりが大事」というところに帰着するいい話だった。『会社員の哲学』という本も人文知を援用しつつけっきょくは「他人に親切にすること」に辿り着きましたよ、などと返してなんだか楽しい時間だった。お酒が介在しないでもこういうやりとりができるなら、大事なのはカウンターであってアルコールではないのかもしれないなと考える。ほかの応対で途切れ途切れの会話というのはよくて、連続した一貫性が攪乱される。ぶつ切れの断片のほうが一瞬の味わいが面白いことになる場合もある。日記を書き終えて、一時間強も長居していたので別のお客さんが入ってきたタイミングで辞す。約束の時間までまだたっぷり余裕があったので、キャリーケースをロッカーに入れて、腹ごなしに歩く。いい感じの公園でひなたぼっこ。きのうの日記を書いて勢いづいているので午前中のことをもう書いてしまう。旅行先でのポメラは最高で、しかしこうやって屋外のベンチで書くというのはいいな、これはべつに近所でもできる遊びだな。書いている時間ずっと陽に当たっているというのは気持ちがいい。カーディガンを脱ぐ。ひなたぼっこがたのしい季節は短いだろうな、なんだかんだで日焼けはするな、小一時間は座っていた。煙草や酒や芳香剤のにおいが移って臭かったカーディガンはベンチに平干しにしておいたらあっという間にいいにおい。帰りの飛行機の設定をミスっている。成田に着くのが22時で、帰宅は日付を超えるだろう。こいつぁ明日の疲れが大変そうだ。しかも何して遊ぶかとんと見当がついていないのだ。映画でも見ようかな、それとも。ベンチに座っている口実ほしさに、むだに千字弱書いている。

お昼はブックバーひつじがで知り合った方とご一緒することになって、明太子屋さんのやっているもつ鍋屋さんでおいしいランチ。学習参考書の著作者としても活躍されている方で、執筆メソッドについてあれこれとお聞きする。面白い。ふだんお話しすることの多い人が書いているような散文とちがって、明確に言語による伝達を旨とした構築物であるからこそ、書くという作業の骨の部分が露出しているような感じがある。もつ鍋定食は一人前の鍋がカセットコンロと一緒に運んできてもらって、ごはんはおかわり自由。しかも明太子も食べ放題。もりもり食べる。あご出汁でお茶漬けにもできちゃう。もつ鍋もおいしい。都ホテルでお茶する。僕は日記の人ではなく、飲み屋で会った人で、午前中のカフェのマスターとの会話もそうだったけれど、なんならZINE とはなんぞやみたいなところから、自分のやっていることをイチからコンパクトに説明するということを繰り返していて、同じような話でも何度も語り直すことで見えてくるものがあるんだなとわかる。ベイブは文フリでの手応えをデコードしていろいろツイートしてみたのだけど、まだまだ錯綜している。たぶんもうすこし端的に書ける。

映画を見るとはどういうことか。映画の表層だけを注視するのでもない。かといってありもしない深さや奥行きに捉われもしない。ただ「自分にはこう見えた」というひとつの視点をそのままに差し出すこと。画面上から読み取れることだけを記述しているはずなのに、なぜか生じる盲目と明晰の差異が際立つ。

自分の立場からものを考えるとはどういうことか。それは単純に「弱さ」の側にも「強さ」の側にも居直れない、複数の論理や構造の上での自身の中途半端な現在地をなるべく手放さないという絶え間ない持続である。わかりやすいポジションなど、個人にはとれはしない。

何度も何度も同じ映画を繰り返し見て、自分が何を見逃し、どんなありもしないものを幻視してしまっているのかを確認する。そうして自分の現在地を測る。「親」を引き受けることにいまだ躊躇う大したことない個人のありよう。

誰もが「子供」の立場から立ち去りたがらず、ありもしない「親」をでっちあげては怒り、悲しみ、疲弊していく状況がある。自らの夾雑物やずるさや構造的優位や鈍感さを誤魔化さず、それでもなおよりマシな未来のために個人が「親」的な立場を引き受けるための準備運動。それが『『ベイブ論』です。

『『ベイブ』論、あるいは「父」についての序論』はいまだ説明が難しい。「論」といいつつ論じてないというか、変なことしてる。ただ映画で起こっていること「だけ」を愚直に文字表現に移し替えるという地道な作業がある。この「映画で起こっていること」というのはスクリーン上の運動だけではなくて、その運動に触発された不可視の情動もあえて含ませてしまっているところにややこしさを覚えている。映画における〈F+f〉である。Focusだけでなく、feelingも書いちゃう。それは個人の感覚であって感想ともすこし違う。この映画の描写を試みる一部に続いて、映画の〈F+f〉を感受した「あとに」起こる思考を記述する、そんな二部構成になっている。

映画の表層を丹念に見るというのでもなく、映画の指示対象をだしにして自分語りをしているのでもない。映画の書き方について、自分なりの方法の試行錯誤でもある。手探りだからわかりやすくアピールする術がよくわからないでいる。

伝えること。そのために容量を削減すること。たぶんそれは、自分にとっていちばんおいしいところをあえて削ぎ落とす行為でもあって、しかし伝えるというのはそういうものかもしれない。到達させるために、ひとまず徹底的に貧しくすること。一種のやつしだ。やつすためには、正体が必要だ。

夕方までお付き合いいただき解散。てきとうにぶらつくか、カラオケや漫画喫茶に入って仮眠をとるか迷う。駅ビルをひやかしていたら上の階に映画館があるらしい。ちょうどガルパンがかかっている。時間もちょうどいい。チケットを買って、大丸でお土産を買ったり、丸善で先ほどまでお話ししていた人の書いた参考書を探して読んでみたりしていたらすぐに時間だ。二度目のガルパン最終章4話。一度目は濃密で長さすら感じたけれど、今回はあっという間だった。これは、何度も何度も見ることを前提に作られているよなあと思いつつ、一回ではわからないというのでもなくしっかり面白く、あまりに面白いからまた見たくなるといういい循環になっているのがすごい。満足して、そのまま地下に降りるとすぐに改札だ。電車に乗るとすぐ空港に着く。福岡では電車の乗り換えくらいの感覚で飛行機に乗れる。すごい。これだったら安心だ。僕が苦手なのは、東京は空港までが遠いということだったのかもしれない。ラーメンのつもりだったけれど、口もお腹ももう充分そうだったからうどんにする。待合室で日記を書く。機内では東浩紀か、週刊少年ジャンプだ。さすがに疲れているから、文字だけの本はつらいかもしれない。

ジャンプもあらかた読み終えて、『訂正可能性の哲学』の一部が終わったところで着陸。これは『ゲンロン』で読んだな、と確認するような読書。やはりこれは非常にまっとうな論だと思う。なぜなら非常に地味で地道な話ばかりだからだ。派手で一気に威勢のよいものは楽しいが実際的ではない。この地べたから始めるほかないのだから。成田は遠いなあ。空飛ぶ時間以上の時間をかけて、だらだらと地面をいく。

柿内正午(かきない・しょうご)会社員・文筆。楽しい読み書き。著書にプルーストを毎日読んで毎日書いた日記を本にした『プルーストを読む生活』、いち会社員としての平凡な思索をまとめた『会社員の哲学』など。Podcast「ポイエティークRADIO」も毎週月曜配信中。