櫻井敦司
この固有名を、これから何度も何度も、うれしさとともに書きたかった。十四時ごろファンクラブ会員向けに「大切なお知らせ」が告知された、そう奥さんが部屋から出てきて教えてくれた。一人で見るの怖いから。奥さんの画面をふたりで覗き込む。訃報だとわかり、その場に座り込んだ。よくわからない。そう呟く奥さんの目からぼたぼたと落ちる涙がTシャツの胸元に縦長のしみを作っていくのを眺めながら、よくわからない、その通りだと思う。なんで? とだけ考え、憮然としていた。目の前にいくつものキラキラした贈り物を並べられて、ひとつひとつ大切に手にとって眺めてはうれしさが下腹部から脳天へと突き上がってくるのを感じてうずうずと踊り出したくなる、そのような時間にあって、なんの前触れもなくそれら素敵なものたちがふっと消失する、その無意味さが耐え難い、この消失になんの意味もなく、ただもうないというだけであることが納得ができずに俯いて黙り込むしかできない、奥さんは自室に戻り、仕事の音と一緒に鼻を啜る音がきこえつづけた。椅子に腰掛けてしばらく動けなかった。日差しが暖かくて、きのうもひなたぼっこをした、休日はなにもせずに公園でひなたぼっことかしていますよ、とラジオで話していた様子を思い出していた、それを思い出していた。面識のない個人の死に涙を流したことはなかった。いつもいつも、この遊び場からとっておきの玩具を取り上げられたかのような癇癪だけ起こす。ちょうど昼寝をしようとしていたのだ。ベッドに横になり、メンバーのブログやInstagram を確認すると、ああ、そうか、僕があの場で聴いたあの声は、最後の声だったのだ、あれから数時間もしないうちに、これからの声は途絶えたのだということが無性に悲しくなって、けっきょく泣いてしまった。泣きたくなかった。泣いてしまっては、故人がその人ではなく自分のものにもなってしまう。あのすばらしい体。肉体表現はどこまでも個人のものだから、あらゆる観客の身体と無関係に秀でたその肉体において実現される演技に惹かれていたのだから、そのような体が失われてしまった無念さを、観念としての個人の死と取り違えて、見知らぬ他人に過ぎぬ自分がその死を悼んでしまうということはしたくなかった。あの最後の声が、かれの演技としては決して優れていなかったこと、そのことを、最後であったという事実でそれらしく糊塗したくない。それでも、泣けて泣けて仕方がない。泣きながら、すでにきょう書くであろう言葉は冷静に描写として浮かんできていた。労働をして、新刊についてのメールや発送の準備もして、だから書けると思ったのだけれど、書き出した途端にいよいよ耐えきれなくなってわっと溢れてしまう。鼻水を食べながらキーボドを打つ。僕の鼻水はさらさらしている。無理に道化を演じてすこし落ち着く。こちらの嗚咽はきこえてしまっただろう。となりの部屋から奥さんの啜り泣きがきこえる。鼻水だけが音を出し、呼応していた。
泣きすぎて、お腹が空いてしまう。悲しみのあまり何も喉を通らないということはなくなってずいぶん経つ。どれだけ悲しくても、おいしいものはおいしい。しかも、そのおいしいものを自分で準備できてしまう。博多土産の明太子を中心に献立を組み立てる。シンプルな葱と豆腐の味噌汁に、明太マヨを巻いただし巻き卵。卵焼きは作ったことがなくて、くるくる器用に巻いていくイメージは完璧だったのだけど実際は不恰好だった。もっとすこしずつ、薄く薄く焼いて確実に巻くべきであった。作り置きの切り干し大根も並べて、白いごはんを明太子で贅沢に食べる。おいしくて、三杯もおかわりする。食べながら、奥さんとBUCK-TICK や、先に亡くなったバンドマンたちのことを話す。横になると泣いてしまうから、食後はお酒を飲んだり、梱包を進めたりしてなるべく縦になって過ごした。たった三ヶ月。けっきょく会報は一号ももらえなかった。それでも、この三ヶ月、「いま」のバンドとして夢中になって追いかけた。僕にとってはいつかの偉大さではなく、現在進行形でわくわくさせられる作者だ。だからこういうときになされる多くの追悼に同調することはできない。かつての姿ではなく、これからを見ていきたかった。この三ヶ月、見れるだけのものは見てきた。それでも、やっぱり、もっと見たかったな。聴きたかった。横浜で、どんなセットリストが用意されていたのだろう。きっともっと驚かされたし、はしゃいだはずだ。お風呂に入る。