2023.10.25

まだしばらく悲しいだろう。今井寿はBUCK-TICK は続くという。QUEEN なのかフィッシュマンズなのかフジファブリックなのか、どのような形になるにせよ、僕はそれを見てみたいと思う。だからバンドについては絶望しない。場としてのバンドの未来については、これからも期待しようと思う。ただ、不世出の演技する体についてだけ悲しむ。奥さんは僕よりも泣いていたから今朝は顔がぱんぱんだった。通勤中、音楽を聴いたら泣いてしまうだろうかと思ったけれど、頭のなかで鳴りやまないから聴いていた。ちゃんと楽しくて、安心した。でも、おなかがすいたり、呼吸が浅くなったり、悲しみと誤認するような状態に体がなるとすぐ涙として結実してしまうから気をつけた。

『『ベイブ』論』について松井さんがH.A.B の通販ページの商品紹介に「長めの感想」を付してくださっていた。今回の本は前半部分にこそ力点を置き、しかしこの方法がどう受け取られるかまったく確信がなかった。だからこそ、非常に励まされる内容で、まちがってなかったな、というか、今回の制作はきちんと狙い通りの作用を及ぼすものになっている、という手応えをもらえた。松井さんのような読み手に見出してもらえたことは、ほんとうに得がたいことだ。うれしいし自分の本の宣伝でもあるから全文引用してしまうが、「明らかに言い過ぎで(もちろん、誰もそんなことは主張していない)」というところで笑った。

本書は二章で構成されていて、最初は「映画上映の記録」、後半は「映画の感想会」(意訳)であり、本書での著者の主張は後半に収録されている。というものなのだが、その面白さは前半に(も)ある。『ベイブ』という作品を、「愚直に「実況中継」的な手法」で行われた記録は映画を「代わりに見る」試みである、というのは明らかに言い過ぎで(もちろん、誰もそんなことは主張していない)、それは後半で著者自身が指摘するように、著者の「目」を通じた、意図的な取捨選択がなされた映画の文章化、である。

この文章化は、『ベイブ』鑑賞者であれば、そうそう、と頷けることもあれば、そうだったっけ? いや、このときの感情はそれとは別のものだ、いう気持ちも抱く。自身はあまり気にしていなかった点を著者が必要(※引用者注:執拗?)に追う場面もいくつかあるだろう。こうした著者の「目」を多くの頁を割いて記録(説明)していくのは、ある種革新的な「手間のかけ方」といえる。

手間を割いているのだ。非効率に。

ごく一般的な映画評であれば、閲覧を前提にその評が進むわけだが、もちろん映画は、見る人それぞれが個別の感情を抱くものだ。その個別の感情、あちらこちら、個人的な体験に紐づいてときに脱線すらするそれ、にひたすら寄り添いながら「見て」行くとしたらそれは「代わりに見る」ことになるのかもしれないのだが、著者の目的はそこにはない。『ベイブ』という作品を、このように再構築した=見た、という著者の目を丁寧に、ゆっくりと読者に刷り込んでいく。それはさながら授業のようで……

「はい、では『ベイブ』を、ここまで丁寧に解説付きで鑑賞してきました。では次回からは本題の映画論に入ります。」

というようなわけだ。

そしてこの工作を著者は隠そうとしておらず、それすら楽しんでみては、と読者に働きかけるのである。

こうして時間をかけた導入のあとに語られる映画論は、著者自身が広告用に引用している「はじめに」に簡潔にまとまっているので、それを見るのが早いのだが、「近代と脱近代」、「内在する階級制」(意訳)など大きく出ながら、交換不可能性から可能性を読み解く試みや、旧来の「父性」の成立をフロンティア的開拓者精神で整合させる、著者の手腕は見事で、本来は理路など無く興奮のあまりいつもうまくまとまらない「映画鑑賞会後のカフェでのダベリ」を、勢いはそのままに、しっかりと読ませるものに仕立て上げている。

ネタバレめいてしまうが「余剰としての歌と踊り」は、映画でも、本書でも、まさに祝祭であって、本書前半の非効率な「鑑賞」は、余剰が生み出す豊穣を、そのまま体現しているかのようだ。

それにしても店主個人として25年くらいぶりに見た『ベイブ』は、とても引き込ませる映画であった。こうして『ベイブ』ファンが増えるのもまた、映画論の醍醐味でもあろう。

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自身の「目」を文章の配置として外在化すること。それが『『ベイブ』論』の方法的なテーマであって、これはこれを書き出す前にはじめて小説を書いてみた体験が大きく影響している。日記のような形でなく散文を書くこと、あるいは文字だけでなにかを描写し制作することについて、自分なりにようやく必然性を見出せるようになってきた。『『ベイブ』論』はある意味では僕なりの小説の方法の模索でもあり、記述されるべきオブジェクトとして映画を取り扱ってみるという実験でもある。言語化の手前にある思考、整除されたリニアな記述としての思考とは別にある、モノとしての思考を文字表現において思考するためにはどうすればよいか、という関心といえばいいだろうか。

「悲しい」というのはただの文字だ。しかしここに表象された観念は明確ななにものかとして僕の心身を記述し、僕自身「悲しい」以外の感覚に盲目になる。「悲しい」という観念だけが明晰に捉えられ、それだけである。僕の日記の記述は基本的に感情は安易に観念化し、思索的な軌跡だけを強調するように書き連ねていくことを好む。けれども、それは既成の観念連合へと回収させてはならないものについて、あまりに無防備だから、別の仕方がいいだろう。この個体としての伝達不可能な固有の実感を、なお文字列として再現の可能性へとひらくこと。生きながらに幽霊になること。生きながらに死者を演じること。それは、どちらかといえば小説のような形になるのではなかろうか。言語で記述しきれないものを、言語によって構築された場において繰り返し上演すること。その上演を可能にするための指示書あるいは環境の制作としての散文。

気がついたら鼻歌が溢れていた。「絶界」だった。はっとして溜息をつく。それでも、ふと油断するといつのまにか口ずさんでいる。無常だ無常だ無常だ

柿内正午(かきない・しょうご)会社員・文筆。楽しい読み書き。著書にプルーストを毎日読んで毎日書いた日記を本にした『プルーストを読む生活』、いち会社員としての平凡な思索をまとめた『会社員の哲学』など。Podcast「ポイエティークRADIO」も毎週月曜配信中。