数えていないからわからないけれど年にすくなくとも百冊くらいは読んでいて、だいぶ年月も経った。奥さんと暮らし始めてから千冊ちかくは読んでいるのではないか。驚くべきことは、これだけ読んであれこれと思考のフォームや信のスタンスも変容しているにもかかわらず、生活の場において奥さんとは相変わらずごきげんに仲よく、なんならいまのほうが深くごきげんが根付いているような感覚すらあることだ。考える地盤ごと疑ってかかり、何度も何度も分解と再構成を試みるように読んでいるはずなのに、いつまでたっても身近な他人との千冊分の乖離は決定的なものにはならないし、なんならいくつかの本と格闘してようやく得た、これはものすごく鮮烈な知見だと思えるようなものを奥さんに付け焼刃の知識とまだ馴染み切っていない語彙を駆使して懸命に話してみると、ああそれって、と見事に地に足のついた言葉で返してくるので驚いてしまう。読んでもさっぱり何にもならない。ひとは、おそらく本を読んだほうが頭が悪くなる。というか、素朴な生活実感から遊離してしまい、いまいちどそこに戻ってくるためにはものすごく面倒な文字上の手続きを踏む必要があるという意味で、ばかにさえなる。肝心なのは、ばかみたいに生活からかけ離れた領域にまで深く深く潜っていきながら、さいごには他愛もなく地味な毎日へと回帰してくるということだ。読書とは行きて帰りし行為であり、潜れば潜るほど地上で吸い込む空気が目新しくうまいものになる。これは陰謀論めいた現状肯定、いまここの「正しさ」を再確認するための欺瞞ではないとはいいきれないであろうが、この生活にはいくらでも豊饒な外部があるということを感覚したうえで暮らしていくのは、僕のような個人の楽しい生存のためには欠かせないものでもあるはずだ。けっきょく、知識の多さも、頭や目の鋭さも、それが毎日の充実や満足や享楽を損ねるものであってはつまらない。どうあれ日々の営為はこの生をより愉快なものに彩るためにあるはずだという、あっけないほどの楽観を僕は捨てることはできない。なぜ読み、なぜ書くか、それは賢しく絶望するためではなく、冷徹にこの生の喜びをみはるかすためだ。のんきであれない思想は僕のものではない。うれしさを損ねるような理性は僕のものではない。誰かを責め立てるための知識は僕のものではない。誰かと共ににこにこするためにそれらはある。そのうそ寒さや粗暴さは、甘んじて受け入れよう。
ひたすら見田宗介を浴びていると元気になる。あいまに青木さんの今年の本を読んだり、オムラヂを聴いて来週のイベントに向けて気分をつくっていくのだが、今年はずいぶん元気な感じでできるんじゃなかろうか。というか、昨年の自分の元気じゃなさが際立っていて面白かった。
