旅行というのはすごいもので、ずいぶん気分が変わる。だから読むものも変わったりして、帰ってきてからの読書のリズムがよれたり崩れたりする。ようやく渡辺浩の明治思想史を読み終え、見田宗介を再開し、飛行機で始めた訂正可能性も読了が見えてきて、あれこれ次の本にも手を出し、快調に動き出してきた。しかし来週には名古屋で、まあ名古屋は帰省だからそこまで大きな変化はないかもしれないけれど、せっかくだったら大阪に寄ろうというのだから大変だ。動き続けながら軸足はブラさないというのは僕には無理だなと改めて思い知る。定期券の更新をしないまま半月ほど過ごしていたことが知れ、つよめに落ち込む。
『会社員の哲学』と『『ベイブ』論』を増刷しようと考えていて、しかし引越しも検討中だからすこし躊躇いがある。今度の増刷は原価を抑えるために思いきり、おそらく最後にしようという想定なのだけれど、今このタイミングで段ボールを七箱くらい増やすのは合っているのか?とビビる気持ちもある。新発売と違ってそこまで動きも早くないだろうしな、というのが難しいところ。しかしどちらももうすこし売りたい本ではあるので、いつかはどうせ増刷するのだ。
じぶんがいまこのようであることは偶然であり、社会においては交換可能であるという自覚がむしろ、際限のない自責に帰結するようなことがある。こうである必然性は何もないにもかかわらずこうであることが、そのまま他のこうであってもよかったはずの誰かへの後ろめたさとして感覚される。誰かから、自分だってそのようにあれたはずなのに、偶然あなただけがその座にいるのは不当であり、たまたまそこにいるあなたがそこに居座ることは、そのままこのわたしの搾取である、そのように糾弾されることをおそれ、あるいは過剰に自己責任論のような形で自己正当化にはしる態度もまた、根底にはこのような無根拠ゆえの不安と罪悪感があるはずだった。他者の搾取によって成り立つ構造を、他者との相補によって成り立つものへと組み替えていくためには、偶然の無根拠をフラットにとらえる理路こそが必要なはずなのだが、個人はどうあれ自分のいる場所しか実感的に知覚できないものだから、自分も他人も同様に括弧に入れるという態度はほとんど不可能めくほど困難だ。
寒暖差がしんどく、早起きだったのもあってずっと寝たい寝たいとだけ考えていた。隙間時間にためしに書き始めてみた原稿を、いやいや、きょうは何を書いても楽しくならないだろうと打ち消す。だんだん心細くなってくる。とにかく布団が恋しい。それだけを思う。
きょう読んでいた見田は「しかしこの論点を導入すると議論が面白くなりすぎて時評のわくを越境するので」と書いていて笑った。思わず音読して奥さんも笑った。いつか使いたい。日中あまりにも元気がなかったせいか帰宅するとむしろましで、奥さんに前髪を切ってもらうと視界と共に気分も明るくなった。
