安倍公彦の事務談義と仲俣暁生の文芸時評と大澤真幸の思考術をちゃんぽんしながら久しぶりに考えが攪拌されているのを感じる。なにかに取り組むさい、対象に固着せずどれだけ他ごとをしていられるかが肝腎であるなとわかる。凝視していても何も考えられない。考えるべきことを片隅に置きつつ、近接したものから没交渉とみえるものまで、とにかく別のことを考え続ける。するとどこかで二つ以上のものが謎に合流したり結合したり衝突することが起こり、そこではじめてものを考えることが開始される。ひとつでは何も起こらない。ふたつ以上のことを意味もわからず混ざるかどうかも確信できないままただ並べておくこと。そうやって馴染みの何かが出てくるのを待つことでしかものを考えることはできないのだから、まじめにひとつのことに取り組んでも仕方がない。ひとつをとことん突き詰めるというのは僕にはできないのだととうに諦めている。だったらせめてつねにあちこちに気を散らせておく状態を維持管理できるようにしておく、そのような方向での自律を試みる。新しい習慣を始める時、毎回のように一点集中に憧れ、けっきょく諦めて多方面への拡散へと落ち着いていくという経路を辿ることになる。自分自身の展開のマンネリズム。
きょうは日本青年館ホールでソワレ。近所でお昼を済ませて、午後からそのへんで散歩することにする。乃木坂で降りて新国立美術館の大巻伸嗣の展示を見る。巨大な似非江戸切子のなかを照明器具が垂直に行き来していて、それによって壁面にうつる影の相貌が万華鏡のように移ろっていく。その壁面のようすはそこそこ面白いのだが、オブジェ自体は退屈で、しかし人々はみな街灯に吸い寄せられる虫みたいにオブジェ自体を取り囲んでいく、その一連を遠巻きに眺めた。知らない作家なのでスケッチや上演映像への関心も薄く、こういうのは劇場で見ないとわからんな、と思う。総じて白けていたが、布の波打ちは楽しくて、長いあいだ眺めていた。照明の具合はあんなに変化しなくてもよかったようにも感じたけれど、表面がストッキングのように艶めくのは面白くて『NOPE』の地球外生命体を思い出していた。映像作品は面白くなかったが、三つ並べられたスクリーンの継ぎ目はすこし面白かった。先の波打つ布もそうだったけれど、継ぎ目の処理のほどよい雑さがよかった。布と布、スクリーンとスクリーンの縫い目の無骨さが、かえって運動の連続を際立たせている。薄暗い展示室を出ると眩しい。奥さんはお茶目──目が茶色いという意味だ──なので眩しがりで光が鋭くなるガラス張りの建物がきらいだ。だから判断力がずいぶん落ちてへろへろしていた。
外苑前の銀杏並木まで歩いていくのだが、道行く人のファッションがあまりに90年代で、それはどうしてもダサく見えるので、高そうな車が下品な花火みたいな音を立てて走り去っていくのも相まって具合が悪くなってくる。なんだこの街は。野暮ったすぎて見るに堪えない。行きの電車では饒舌だったがどんどん無口になっていく。元気を奪われる場所というのはある。誰かにとってはその場所こそ元気の出る場所で、だから僕には何が楽しいのかわからないこの場所で多くの人が浮かれた顔で歩いている。僕が生まれた頃のダサい服を着て、顔だけは今風なせいでよりダサさが際立ってしまっているようにしか思えず、そうか、年寄りがユースカルチャーを理解できないのは、その珍奇さによってではなくむしろ濃厚過ぎる既視感によってなのかもしれない、と思い至る。僕はこの辺りが嫌いだな、という気持ちは、醜悪な運動場が見えてきて確信に変わった。ばかが、と公園のネーミングのキモさやそのへんの寺などあらゆるものへの悪態をついた。奥さんが見つけたクレープは美味しかった。立川のほうがいい。
エーステ秋単。ここでも客席のようすは首から下はアムラーみたいな感じで眩暈がした。秋組はACT2 に入ってから格段によくなっているのだが、だからこそ瑕疵として左京さんのアドリブしたがりが悪い意味で際立ってきている。ほかの組と比べても最も緊張と弛緩のコントロールが求められる組であるにもかかわらず、張り詰めていなければいけない場面でいちいち何かするから視線誘導の設計がわやになるし、全体のバランスを欠いてしまう。やることだけやってくれ。もともと設けられている日替わりコーナーはどれも当たりの日でちゃんと面白かったから、余計に惜しい。与えられた余地でだけ遊ぶということがどれだけ大事なことか。観劇の時間を細分化して部分にしか還元できないような俳優はダメでしょう。それはそれとして今回いちばん面白かったのは夏組の二人で、かれらは劇中劇が終わるたびに袖から現れてこの劇のどこがどうエモかったのかをいちいち明瞭に言語化していくのだ。これは物語の鑑賞法というか、提示されたものをどのように解釈するかのレクチャーにもなっており、その手取り足取り加減に恥ずかしくもなるのだが、じっさい僕がふだん作品に対して行っているのもこのような楽しい野暮なのである。エーステはこれまで演劇を作り手の側から描いてきたのだが、ACT2 の二巡目からはそこから観客にとって演劇とは何かという方向へと傾き始めている感覚がある。
そこそこの洋食居酒屋でお腹いっぱいにして帰宅。寝るのは二時ちかくになってしまってしまったことだった。
