2023.12.23

奥さんが明日のディナーの仕込みをしているあいだ、僕は原稿をひとつ書き上げて、もうひとつの下拵えを済ました。前者は2000字指定のところ5000字近くまで膨れ上がり、なんとか規定内に収めるのに四苦八苦した。後者は4000字くらい書きますよと放言していたが、このくらいかなと思うと1300字しか書いていなかった。

夕方からは内見に出かける。今回は事前情報の時点でかなり前のめりで、奥さんはGoogleMaps のストリートビューで駅から物件までの道のりを何度も何度も辿っていた。あそこにあるのが食べログでどうの、この丘の向こうがスーパー、などと教えてくれるので、好きな人の地元を案内してもらっているような錯覚すらあった。すこし交通の便がよくないことだけが懸念点でそこを上回るときめきがあったら決めてしまうかという気持ちで家を見て、物件が家に変わる閾値はどこにあるのか、ともかくそこは家だと思えてもう決めてしまうかとふたりともほとんど躊躇いもなく、ここだね、と頷く。引越しはここから審査だのあるので、こちらが決めたところでそれで即成立とはいかず、あれこれ悩み抜いた先にはただ相手に委ねて待つほかない時間がある。年明けからはばたばたしそうである。

柏の高島屋は行き当たりばったりに増築を繰り返したような有機的な巨大さで、クレープを食べたあとふらっとキネマ旬報シアターに寄ってちょうどかかるところだったアイナナのライブを見てみることにする。あまり乗りきれず、生身の現出の場であるライブパフォーマンスから身体を抜く意義が感じられなかった。舞台上の肉体の不在より、観客に固有の体が与えられていないことへの違和感が強い。そしてなにより、舞台表現としてつまらない。演出が仕事をしておらず、広い空間を持て余している。とにかく場の構図がダレて緊張感がない。そのことに苛立った。見るという行為から肉感を漂白した先にあるのは、貧相な光と音の刺激に反射的であるほかない消費だけであり、そこに自由な主体はありえない。客でなくてマネージャーのほうを向いたパフォーマンスだったね、という奥さんの言葉が芯を食っている。いまや多くの人たちは、消費者でしかあれないという現実から甘やかに目を逸らされて、あたかもなにかを共創しているかのような幻想の中で消費している。僕はそうした幻想の居心地のよさに甘えてぬるい制作でよしとする態度が嫌いだ。実際的な共創関係とは、双方向的なものではありえず、むしろ一方通行な発信をただ浴びて別の回路へと放出していくような関係の中にしかありえないと僕は思う。消費は消費に過ぎない。それは作り手へのフィードバックにこそなれ、制作行為そのものには届かない。それでいい。なにかを作ることは、与えられたものをうまく消費できなかった時に強制される思考によってしか始まらない。それまでは、ただ見ること、ただ聞くこと、ただ読むこと、それで充分だ。褒めるにせよ貶すにせよ、まずはただ受け取る、そこからしか始められないはずなのだ。

柿内正午(かきない・しょうご)会社員・文筆。楽しい読み書き。著書にプルーストを毎日読んで毎日書いた日記を本にした『プルーストを読む生活』、いち会社員としての平凡な思索をまとめた『会社員の哲学』など。Podcast「ポイエティークRADIO」も毎週月曜配信中。