プロレスごっこというと体の大きな乱暴者がひ弱な同級生を虐める口実というか、後ろ暗いサディスティックな欲望のアリバイのようなものだという印象がある。じっさいのプロレスはむしろマゾヒスティックな喜びに溢れている。観戦中、えっと、今のはどっちがダメージを負ったの? とわからなくなる瞬間が何度もあった。特に自分ごと相手をマットに叩きつけるような派手な大技がそうだった。あれは、どちらも痛めつけられている、というのが正確なのだろう。一方的に痛めつけるのではなく、自身も同じだけの痛みを受けて、それでも先に立ち上がるという美学。はじめてのプロレスについて奥さんと録音。さいきん僕が考え続けている演技というものを巡る問い──アクターとパフォーマーの差異──は、奥さんの発案だったことを知り衝撃を受ける。とにかく僕は奥さんの言ったことを自分の考えたことと錯覚しがち。というか録音の最中もほとんど意識しないままに奥さんのアイデアを我が物顔で反復していておそろしかった。略奪。かっぱらい。プランダーフォニックス。この日記もそのようなもの。そこにあるのは批評ごっこでさえなく、ただすっとぼけた盗みと忘却でしかないとしたら。こわ。
それはそれとしてプランダーフォニックスという音楽ジャンルのこと、折に触れて思い出す。ある名詞がいきなり切り開く視野というものがある。プロレスもまた、それ自体、言葉にする必要もない身も蓋ものなさで動詞の世界でありながら、名詞にまみれている。ユニットの名、選手の名、技の名──、それらを知らずともじゅうぶん面白いが、おそらく知っているとより楽しい。必殺技の予備動作で勝利を予感する。名詞が未来を先取りする目をつくる。名を知れば知るほど、見えるものが増える。それはきっと楽しいだろう。楽しそうだ。
漢方薬を電話注文したり、書類をあれこれ書いたり、振込の手配をしたり、あれこれと気になっていたことどもを片付けてすっきりした気分。大振りの書見台も衝動買いしたらかなり快適で読書の体験が格段に改良された。しっくりくるボールペンをようやく見つけることができたし、ファミマの服もずっと着てみたくて、今日とうとうトレーナーも買ってみた。頭の中がずいぶんと整然とした気がする。うれしい。あとは万年筆のインクを新調したいのと、亀の水槽を洗うための手動ポンプを買い換えるのと、髪を切るのと、あとはなんだっけな、なんかあった気がする。とにかくそれらが終わればもう心配はなしだ。嘘だ、沖縄での読書会に向けた選書もあるし、文芸誌を読まなくちゃ。松崎史也演出のハムレット、EVIL の試合の映像を流しながら、奥さんはテオ・ヤンセンのミニビーストを組み立てている。ずいぶんと難しそうだ。試行錯誤しながらぶつぶつ言っていて、手先を動かす喜びが伝わってくる。