2024.01.08

年月日、会社やユニット名、選手の名前に得意技。プロレスは名詞にまみれている。ある日付、ある土地の名、ある固有名詞のなかに、豊かな内容を持つ出来事や関係が圧縮されている。言葉を覚え、現実の諸相に対応させるように配置していく。そのような勉強の楽しさがある。少年漫画では技名を叫びながら繰り出すが、プロレスで技名を叫ぶのは観客であり実況アナウンサーである。技名は、レスラーの代わりに叫ばれる。プロレスにおいて名前を覚える意義とはこれだ。リング内で実現される技を完成させるのは、リングの外から即座に名を叫ぶ観客なのである。目の前の出来事にすぐさま名をあてがうこと。そのようにして客席はレスラーと共に闘う。

僕は名前を覚えるのが苦手だからこのような楽しみ方には向いていないはずで、だからこそこれまで観てこなかったはずだし、たぶんこれからも別の楽しさを探すことになる気がしているけれど、名についての瞬発力を鍛える快感は想像できる。

というか、ある世界を知り参加するというのは、そこで流通する語から膨大な情報を受け取れるようになるということで、その世界内では一語である物語を言い尽くすことができるのだが、外からではその語はただの一語、文字列、音でしかありえない。どっぷり内在するとこのことを見失いがちなことである。門外漢としてやたらに喋る素人に留まることの意義はここにある。にわかにしかできない饒舌というものがある。それは、足腰の弱い一般概念でローカルに腰を据えた名詞の強さに立ち向かうことだ。抽象化による汎用性の高い一般化は、独自の語彙に縮減された具体をいま一度具体化したうえでつぶさに敷衍していくことではじめて成しうる。

しかしいつまでプロレスの話を続けるのだろうか。ゾンビから幽霊そして明治や実話怪談へと連なる関心のあり方はずいぶん長い間マイブームだったけれど、ここにきてプロレスがかつてのゾンビ並みの熱量で迫り上がってきてる。

これはプロレスに限らず、実話怪談、演劇、小説、あらゆる僕が楽しむものたちに対するふわっとした話として書くのだが、「どうせ嘘なんでしょ」という陳腐な一言で得意顔になれる人たちは、お金や国家というフィクションが個人たちの日々の生をどうしようもなく規定していることをどう捉えているのかだろうか。虚構の実効性への鈍感さは現状肯定だけを「現実」として認める態度であり、それこそとことんまで「騙されて」いる。それを看過できる「現実感覚」が僕にはつねに謎である。

プロレスについての雑感はまずTwitter などのSNS にラフに連投してみる。この日記より広く目に留まりそうなところに書くことで反応をみて筋の良し悪しを探ってみたいから。しかしツイートはもうほぼ見られていないなと実感している。とはいえほかの場であれば見られるかといえば全然見られない。そのくせ奥さんは読んでくれるので今日の日記はTogetter だったと不満げな顔をされることになる。一日に摂取する文字数はそう変わらないか、なんなら増えがちであるのに。

ふと読書会で援用されているエスノメソドロジーって人々の(エスノ)日常的実践の方法(メソッド)についての論理(ロゴス)か、と気がつく。いまさら。それは僕が好きそうな分野だった。この半年以上、なにを聴いていたんだかわからない。あまりに遅い関心の生起。カタカナ語はしゅっとしているくせに意味が遅れてやってくるからのろまだ。でも一度腑に落ちればそれ以降の処理は早い。プロレスの技名と同じことだ。

お腹の調子がよくなくて何度も何度も便座に座る。文芸誌を届いたものから読み始めるが、まだ半分も届いていない。発売日も過ぎているしやきもきする。調べてみると今回は小説が三〇作を超えている。連載や連作は優先度が高くないにせよ、先月は取り上げる候補になりそうなものは一〇作もない程度だったから、量の差に、ぐえ、となる。本屋で取り寄せてもらっていた『マネジメント神話』を受け取り、きのう読書会で教えてもらった『数の値打ち』と一緒に買う。Kindle端末には吉川さん推薦の『プロレススーパースター列伝』も入っている。今年はたくさん読めるかなあ。メルマガで柿内賞の受賞作を発表する。けっきょく選評で二十四の候補作ぜんぶに言及することになった。分裂座談会までやる余力はなかった。

柿内正午(かきない・しょうご)会社員・文筆。楽しい読み書き。著書にプルーストを毎日読んで毎日書いた日記を本にした『プルーストを読む生活』、いち会社員としての平凡な思索をまとめた『会社員の哲学』など。Podcast「ポイエティークRADIO」も毎週月曜配信中。