駅についてマスクを忘れたことにようやく気がつく。マスク非着用の特異さがなくなって久しい。少し迷うが、電車で無防備なのも嫌だし、なにより職場で顔を全面的に晒すの無理だなと思いドラッグストアで数枚入りのやつを買う。お腹も空いていたのでプロテインバーも買うがこれがまずかった。もそもそとマスクのなかでいつまでも飲み込めないまま電車に乗った。『マネジメント神話』を読む。メイヨーの疑似科学によって神話化されたホーソン効果を茶化し尽くしていく。
抽象的な言葉を用いると、メイヨーの先行者たちが理解していたことは、マネジメントは、単に人の活動を組織する技術の集まりではなく、組織や社会の中で個人が互いに関わる仕方を律する規範の集まりでもあるということだ。誰であっても、知り合いの偉大な経営者について話してもらうと、その人の技術的熟練をある程度認めた後で、尊敬、配慮、公平といった道徳的義務の言葉で議論が展開されるのが常だろう。ギリシア語で表現すると、マネジメントは、テクネー(techne)(「技能ないし技」を意味する、テクノロジーの語源)とエートス(ethos) (ある集団や社会において他人とのつながりを示す限りでの「行動様式ないし特性」を意味する)の両方に基づくのだ。テクネーが目指すのは効率さという目的に到達する一般的な方法であるのに対して、エートスがまず関わるのは信頼を築くことである。信頼は、テクノロジーの驚異が生産性の上昇をもたらすためのインフラだ。信頼がないところでは、効率性を達成することはほぼ不可能だ。逆に言うと、非効率性は信頼を破壊するのだ。
もちろん、ある程度まで、テクネーとエートスは結びついている。つまり、個々人の特性を形成し、集団での信頼を築き上げることに確かに役立ち得る技能や技術の体系が存在する。ギリシア語にはこうした技に対する語がある。エートスとテクネーを結合してつくられたエシックス(ethics)である。ギリシア語では、エシックスを習得した者は、ソフィア(sophia)、つまり理論的知恵とは区別されるフロネーシス(phronesis) と呼ばれるある種の実践的知恵を持っていると言うことができる。この種の実践的知恵ないしフロネーシスは、マネジメントの自然な目的であると言うことができるだろう。比較的ましなときの教祖たちが、我々に努力して身に付けさせようと駆り立てるのはこの理想だ。
マシュー・スチュアート『マネジメント神話』稲岡大志訳(明石書店) p.201-202(強調部原文傍点)
マネジメントという思想体系はエートスをテクネーに還元する、つまり規範や行動様式というほんらい経験と実績によってのみ培われる信頼の領分を、あたかも技術的問題かのように扱うための詭弁なのである。厄介なのはこのような思考形式がビジネスの外にまで蔓延り、あらゆる問題が技術的課題として処理されることを欲望するがために、エートスとテクネーの結合体である倫理までもがぐずぐずに失効しているという状況である。マネジメント思想は倫理にのっとった実践的知恵を目指すと嘯きながら、エートスを破壊し、テクネーを肥大化し、結局のところ似非理論が実践をも食いつぶすナンセンスを量産する。テイラーやメイヨーという先駆者によって開始されたマネジメントの思想における「人間至上主義」とは、支払いを少なく留め置いたまま賃労働者をより一層働かせたいという経営者の欲望を満足させるための欺瞞に過ぎない。やりがいも心理的安全性も阿呆らしい。
奥さんがTwitter みたいな日記アプリを見つけて、でもいちばん肝心なのはツリーに繋げられるかなんだよな、と言っていた。Twitter は起動時のタイムラインが時系列でないことで「見る・読む」ことに関しては著しく意欲を削がれ、おかげで開く頻度も時間も劇的に減った。これはよいことだが、ツリーに繋げると表示数がてきめんに減退するというありかたは「書く・考える」ツールとしてのよさについても損なった。書きおえたあとにボタンを押すと外に一塊の文字列として放流される、その塊の形に触発された考えを、別の塊として書いて、はじめの塊に連ねるようにしてくっつけていく。そうやって塊ごとの短い思考が長々と連結していくという経験はたしかにひとつの思考形式を為していて、そのリズムも内容もこの日記のベタな書き方とは異質である。ちょっとずつ塊を放り投げる、そこに別の塊をくっつけていく、そういう書き物ツールがあればいいのに。あるだろう。「Twitter ツリーみたいな メモアプリ」で検索したらすぐに出てきた。けれどもたぶん、塊単位で反応の質が違う、というのもこれまでの試行錯誤の経験として必要な刺激であったはずで、だから素朴に虚空に投げればいいというものでもないような気もする。
昼休みにおいしいコーヒーをテイクアウトすると、一口でずいぶん機嫌がよくなったので怖かった。最近気持ちがめそつくのは、冬季鬱でも引越しの不安でもなく、単にカフェインの禁断症状だったのではないか。検証のためにも、コンビニなどのコーヒーから始めるべきだったかもしれない。しかし、コーヒーはおいしいなあ。すっごくいい気分だ。
週末に出かける沖縄は東京と十度近く気温が違うようで、温かいところに行けるのはうれしい。いまのダウンコートは丈も長く北極にも行けるような立派なもので、今回は嵩張るだろう。昨日もいちいち脱ぎ着するのも億劫で、トイレさえ面倒だったし、結局のぼせた。奥さんに勧められつつ長々とうだうだしていたユニクロのウルトラライトダウンをようやく買って、くるくる巻いて袋にしまう。これは便利。今回は本屋にいくというのとぼけーっとしたいというので計画もほとんど立てないまま行くから遠出の実感が湧かないで、荷造りへの焦りもほとんどない。予報だと雨がちのようだが、のんびりできたらいい。読書会の選書だけは忘れないようにしないと。まだ何も思いついていない。本棚を眺めないと。
帰宅するとやけに気分がよくて夕食の箸を止めてまでべらべら喋る。これもコーヒーの効果だったら怖い。『Firewatch』は三日目を超すといきなり時間の流れがぐっと変わって、僕はこういう語りのモードに変速ギアがついてるようなのが好き。だらだら続くのかと思ったら一気にきな臭いぞ!