文芸誌を読んでいるとすぐ気がつくのだが、僕は時評を担当しているというのにどの作家が芥川賞をとっているかとか、どの賞からデビューしたのかだとか、そういうことをほとんど知らないままに読んでいる。しかもほとんどそこに興味を持てない。まったく冒涜的である。しかし小説というのは、すくなくとも読み手の側にとっては、それほど高みにあるものでもあるまい。面白ければ面白いし、つまらなければつまらない。名前で読んでも仕方がないというか、むしろ下手に知ってしまっているほうが厄介で、名前で読んでしまいそうになる。最新号に掲載された小説というのは、作家の有名無名にかかわらず、まだ知られていない小説であることに変わりはないのだから、とにかく来たものを読むまでだ。こちらは作家論をぶちたいわけでもない。今年から文芸誌を読むものとして読むのだ。そのくらいの気楽さを意固地に持ち続けたいと思う。ほんとうは、昨年の芥川賞候補作はどれも面白そうで興味をひかれているのだが、そこまで手を出し始めるとキリがないという気持ちがあって、読みたい本に圧迫され過ぎてしまいそうだったから禁欲している。業界通になってもつまらない。知ったことか、と居直り、たまたまそこにいる読者として、門外漢の素人としてできることをやる。えらくなりたさも特にない、そのことに焦りというか後ろめたさのようなものを覚えていた時期もある。そういう時期はこれからも来るだろう。でももうしょうがいないかな、という気持ちが強くなってきている。知らない、できません、そういうことをしゃらっと言えるままでいいや。
油断するとすぐに何かを背負いたくなるものだが、ふらふら所在なく佇むだけでなにがいけないというのだろうか。他人から見て成功しているだとか、格好いいだとか、そういう人を見るとき、自分とは違うな、とは思うのだが、いつからかそれを羨ましさと思うことがなくなっている。というか、子供のころからずっとただ違うな、と思っていたようにも思う。自分よりも金持ちの家の人、自分よりも社交的な人、自分よりもお洒落な人、そっちのほうがいいとか悪いとかいうのは社会の文脈にのっとった漠然とした他人の評価であって、それは僕ではないのだから、あまり関係ないとも言えなくもなかった。客観的に見て自分はあの人たちとは「違う」のだということがわかっても、それが卑屈な気持ちに結び付く回路がどうにも見当たらなかった。僕はわりといつだって自分には満足している。満足ではないか。自足している。自分であるだけで充分だった。そこに肯定も否定もない。そうなのだから。エレベーターから自信も財力も精力も漲っているという感じの男がずずいっと降りてきてこちらを押しのけたとき、気圧されて、その無理に前進してくる感じにすこしイラっとしながらも、自分とは違うなとだけ思い、そんなことを考えた。やはり以前はもう少し、なにくそ、という気持ちがあり、上昇志向のようなものが芽生えたりしていたような気もする。そんなことないか。わからないな。自分が自分でないようになることになんの魅力も感じない。だいたいこのままでいい。気力も体力も萎えている。きのうはプロレスラーみたいな勢いで話すアドレナリンおばけだったくせに。季節の変わり目だからだろう。『すばる』掲載の小池水音「あのころの僕は」は幼稚園児の卒園までの半年くらいを丁寧に思い起こしていく小説だったのだけれど、それを読みながら五歳くらいのじぶんの記憶を甦らせては、その頃の自分は今となにも変わっていない、あのころのまわりのわけわからんさ、恥ずかしさ、それでもひとまず目の前のことに対処しながら自分なりの納得を探していた、そのような毎日の心もとなさは、ほとんど変わらず今もあるなと考えていたのかもしれない。困ったようにもじもじして、俯きがちにはにかむほかないような日々だ。
今週はずっと20度ちかくまで気温が上がるらしく、めちゃくちゃじゃん。