午前中に架電します。そう連絡されていた。午前中。朝が弱い僕にとって、午前中とはほとんどない。外出する日だとして、目的地に着くまでは電話を取れないという意味ではまだない時間だとすれば、十一時からの一時間しかない。起きてからの時間だとしても三時間くらいだ。午前中配達の荷物を待つときはなるべく早く起きて、このくらいの時間をどきどきして待つが正午ギリギリだったりする。そうなると午前中はほとんど待つことに費やされ結局なかったのと同じことになる。なにかを待機する午前というものが、僕は苦手だ。
なにかの次元での競争だとか自慢だとかポジション取りとかではなく、ただただ素朴に吐きたい弱音や泣き言というものがある。
適切なタイミングですかさず表明される怒りというのは、ある要求を通すための最適な道具ともなりうるということを、要求を呑まされる側として子供のころから覚えこまされている。このことの厄介さを、どちらかといえば要求する側に立つことが多くなる年頃になって考える。けっきょくそのような怒りの使用は、強者の側からしか有効でありえないような方法でしかなされてこなかった。そしてそのような構造的不均衡のうえでは、怒らなくてもどうにでもなっただろう。いまこの立場において怒ることは、ほんとうに目的達成に不可欠なものだろうか。それとも、ただこの場においては自分のほうが強いということを誇示するほかなんの意味もないだろうか。
厄介なのは、僕自身がこれまで生産的であったり協調的であったりする行為を拙いながら実現してきたのは、怒られたくない一心であったことで、怒られないのであれば何もしないで済ませていただろうということだ。人はとにかく動きたくないしサボりたいしズルをするというのを、これはだから「人は」ではなく「自分は」なのだが、そのくせ広く適用可能な世界観のようになっていて、そのような無気力な人間をどうにか活動的になってもらうための方策として、怒ってみせる以外の手段をどれだけ持っているだろうか。僕はなるべく穏やかに暇していたいから、怒ることもなるべく避けたいのだが。
ここまでに書いたのは、自分が組織や市場において構造的にどうしたって弱者ではなくて、自分の怒りが既存の価値体系のなかであっさりと有効に機能してしまうことへの居心地の悪さからくる感慨であり、そのうえで組織人として円滑に業務という集団行動を遂行していくさいに立ち会うジレンマに対しておぼえる悩みであって、構造的な不正自体に否応なくそこに巻き込まれるほかない一人の市民として怒りを表明することは、これとはまた別の次元で考えるものだ。
とかく人は会社の経営や組織の運営みたいなものを、社会や国家といった共同体の政治のアナロジーとして考えてしまいがちだが、これはまったくの不正である。前者は目的や趣味といった何ものかに基づいた同質性が前提とされるものだが、後者はむしろどれだけ建前において共通の何ものかをでっちあげたところで実態としては単一の同質性で閉じることなど絶対にできない性質のものだからだ。政治というのは、一つの原理に収めることのできないてんでバラバラの他人たちの利害を、なるべく干渉し合わないで済むように調整するためのものだ。つまり、個々人がなにも気にせずのびのびとしていられる余地を最大化することが第一義であってほしい、そのような信念を僕はもっているということだ。
弱い立場からの怒りの表明は、そもそもの構造への異議申し立てであり、そのような勇敢さを「有効でないもの」として切って捨てたくはない。組織人あるいは顧客として、怒ったらものごとが動くような立場になってきたら、自分の都合で怒るんじゃなくて、怒りたくても怒れない立場の人を「そこは怒ってもいいところ!」と励ますとか、代わりに怒るとか、そういう形で怒りを利用していくほうがいいのだろうな。
自分の吐く文字数の増加に春を感じ取る。いまだ出会ってもいない猫との暮らしを思い出すように描いては、その懐かしさだけを糧にもう少しだけやろうと考える。