「日本はもはや経済大国ではない」みたいな言説、物心ついてからずっと見てきたけれど、そのたびにナンバーワンというトラウマについて考えている。
経済では知らないけれど、個人的なナンバーワン体験、たとえば部活の大会だとか、進学だとか、会社での出世だとか、「あの瞬間の自分はイチバンだった」みたいな記憶って、それが甘やかで輝かしいものであればあるほど、ぱっとしない現在を苛む傷痕のようになっている人をたくさん見てきた。他人とナンバーワンを競うようにして得る相対評価って、勝っても負けてもつねに楽しいということはないものというか、一時的な勝利の快は大きくてもその反動も大きいし、相対として楽しくなさの方が多いのではないか。
「おれがナンバーワンだ!」みたいな成功体験に乏しく、「きょうもいちばん楽しかったな」みたいな評価として意味をなしていないポンコツ絶対評価で暮らしているからなのか、ナンバーワンへの欲望みたいなのがいつもよくわからないのだが、それでもとびきり楽しかった日の翌日は気分が落ち込んだりするので、ナンバーワンの反作用については想像できる気がしている。
アニメがすごく好きな『ダンジョン飯』の漫画が半額ポイント還元ということでKindleで買っちゃう。
オルタナ旧市街「お口に合いませんでした」と竹書房の怪談マンスリーコンテスト1月の最恐賞ホームタウン「橋の上」を続けて読んで、往年の物書きに食いしん坊が多いことの必然性を見た気がした。嗅覚や味覚への刺激を連想させる文字列は、読み手の体験する快不快を高い精度で設計しうる。神沼三平太や蛙坂須美の最低最悪食物比喩表現なんかはひとつの極地だが、慣れ親しんだ風味が忌まわしい事物と直結させられたとき、何度も楽しんできたはずの風味が記憶されたそのままの形で、しかし絶対に受け容れられないキモさで鮮やかに立ち上がってくる。この嫌悪感は強烈。
あらゆる事物は記述しきれない。どれだけねちねち描写しても必ず描き尽くせず残余がある。しかし食べ物の名は強い。名を書いておくだけで、めいめい読み手の記憶にアクセスし、勝手にそうした残余を補いながら味わってもらえてしまう。不味さ話や実話怪談において行使される名の喚起力の悪用。
名詞というのは多かれ少なかれ喚起力があるわけだけれど、たとえば土地の名なんかだと、プルースト『失われた時を求めて』の「土地の名──名」と「土地の名──土地」の対照に鮮やかなように、名の喚起しうる指示対象が広範かつ観念的で、読み手ごとの個体差が大きくなってしまう。食べ物は、このようなブレが比較的小さい。土地ほど固有性がなく、観念的になるには具体的な経験に結びついている。絶妙な使い勝手のよさ。そんなことを考えながら、TwitterやBluesky に書き散らし、その勢いで今月の文芸時評の草稿を書く。だいたい見通しが立ったので、これで今月も好きに読書できる。うきうきだ。
レイトショーでゴミ捨て場の決戦を見届ける。ふだんガラガラの映画館が満員だった。誰かが真剣な顔でボールを追いかけ、走り、翔ぶたびにべちょべちょに泣いて、ハンカチ忘れたな、と思う。
