大人買いした『ダンジョン飯』を一気読み。奥さんも別の端末で夢中になっている。ふたりで同じ漫画を別々に読めるというのは電子の利点だ。とっても面白かった。最後まで旅の目的が変わらず、そのくせ外部との交渉の中で思いもよらぬところに帰着していくという物語り方が、そのまま欲望という通底する主題と重なる。魔物を愛し、食べること。他者の欲望を学び、それに同化しようとしてみせるというエロチックな知的興奮は、ちょうど読んでいる『(見えない)欲望へ向けて』とも響き合う。食べたいと思うこと。同じになりたいと願うこと。「同一になれるはずのないものに同一化すること」。何かを食べたいと欲すること、誰かとその食を分かち合いたいと望むことは、「原理的に性的かつ無作法なものでしかありえない」。
物語への欲望が物語の死をもたらすのと同様に、他者への愛は他者を吞みこみ消し去る。『文化への不満』のフロイトにおいて、痛みを与える自我の外部は、甘受されるというより、攻撃的に征服される。他者への愛は他者への攻撃であり、それはすべてを自己に取りこみ、自他の区別のまったくない、すべてが自己であるというかつての一体感を取り戻すための運動なのだ。
村山敏勝『(見えない)欲望へ向けて』(ちくま学芸文庫)
われわれは他人の幻想を尊重しなければいけない、とジジェクは再三語る。そのとおり。しかしそのとき、他人の幻想は共有不可能であることが前提とされている。実際、共有したような気分になってプライヴァシーに踏みこんでくる者ほど迷惑な奴もいまい。しかし、そもそもものを読むとは、他人になること、同一になれるはずのないものに同一化することだ。そして本書でくりかえしてきたように、同一化と欲望とは区別がつかない以上、読むことは原理的に性的かつ無作法なものでしかありえない。要するにわたしは、たとえ自分勝手な愛しかたであっても、すべての人を愛したい。他人の気持ちを感じとるという性的な歓びがなければ、そもそもなぜ書物など読むのか。めんどうな理論を学ぶのも、他者の思考を追体験したいという欲望のため以外、なにがあるというのか。
同書
『夜明けのすべて』を観に行く。日曜のレイトショーで、明日が来るのを恐れながら劇場の椅子に座って見るのがよく似合う。いい映画だった。やっぱり手前と奥とで異なる動きが起きていて、ふとした瞬間に偶発的に同期するような瞬間にはっとする。夜、事務所のデスク側でカセットテープを再生する姿に注目していると、一段上がったところにある奥側の部屋の電気がぱっと点く。公園の切り立ちの向こうに伸びる坂道を自転車が右から左へと走っていく、手前側ではピンクのジャケットを着た子供がしゃがんでいて、自転車と子供が垂直に配置されるくらいのタイミングで母の呼び声に答えるかのようにぱっと立ち上がり画面中央から右手へと駆けていく、この自転車と子供の移動の交差の鮮やかさ。複数のオブジェを捉えられるように引いた場所に低めに置かれたカメラは、とにかく何かの移動を待ち構え、特に手前から奥へのそれを美しく撮る。どの背中も見惚れてしまうほど頼りなく、何かを真っ直ぐに見据える顔はつねにすこし斜めから、あるいは横から映し出される。テープに耳を澄ませ、ノートに目を落とし、プラネタリウムを見上げる顔。そこに落ちる光の移ろい。肌が粟立つような瞬間がいつくもあった。それに音。誰かが階段を登る音、背後で不規則になにかが擦れぶつかる音たちの煩わしさ、プシュ、という炭酸水のペットボトルをあける音の鋭さに、いつしか観客の神経も鋭敏なものとして調律されて、触れたらすぐに暴発しそうな不安定さへと準備させられている。その時点から、一見穏やかな日々の景色に、制御しようのない心身の暴れっぷりを重ね合わせて見る目になっている。いちいち下拵えが丁寧で、なによりその手抜きのなさに感動する。いい仕事、と思う。しんどくない程度に、頑張っている。映画館を出てすぐ、目の前を巡回の警察官がふたり、自転車で通り過ぎていく。歩いていると、向こうから背後へと抜けていく自転車がある。それらがいちいち胸を打つ。高架の上を電車が右側奥から左へと走っていき、マンションの壁面に静かに暴れる光が映る。そうしたことにちゃんと驚く目を整える。いい映画にはそうしたところがある。それは天体観測の目にも似ている。映画とは、紛い物の空をつくり、それを本物の星と同じように息をつめて見守ることなのかもしれない。というか、これはそういう映画だった。