頭やセンスの良し悪しのずっと手前に、体力と気力の個体差があり、つねに元気のない者はあらゆるものに知性や感性を発揮するというわけにはいかない。
『ダンジョン飯』はアニメから入って、こんな完璧なアニメがあるのなら漫画を読まなくてもいいのかもしれないと思ったものだが、じっさい漫画を読んでみるとこんな完璧な漫画をアニメにするのは無理だと思う。アニメは目の快楽のために重力に噓をつかせるところにこそ魅力があるが、それが一つの画面上に展開される映像である限り、同一の空間で同一の時間が流れているという前提に強く制約される。漫画はコマ割りによって、空間と時間にも嘘をつかせることができる。大澤真幸『〈世界史〉の哲学』を思い出しながらいうならば、近代遠近法以後にあるのがアニメで、それ以前の宗教画のナラティブをもつのが漫画だ。あるいは、一つの画面上に展開される単一の時空間の運動がアニメで、コマ=平面上に描かれた絵を一望可能なひとつの紙面上に配置することで時空間自体を複数化するのが漫画だ。
漫画もアニメも面白いなと本棚から『漫画映画の志』を読み始めると、これは作品論だった。まずはインターネット上に放流されている『やぶにらみの暴君』を観てから読み出す。『王と鳥』も配信で見よう。雨でなんの気力も湧かなかったが、読み出してしまえさえすればこうして次々欲望は絶え間ない。そのことにほっとする。これが読みたいあれが観たいがなくなってしまった時、どうしたらいいのかわからない。しかし年々、好奇心を支える土台、体力と気力が減退しているのを感じる。きょうの気圧はやばい、と言ってすぐさまその場でストレッチを始める奥さんはすごく格好いい。僕ももっと日々の手入れをしっかりやらないと、すぐにでも何も楽しめなくなってしまいそうで怖い。
きのう、録音するの忘れたな、と夕飯時にようやく気がつく。労働や用事、休息のリズムが不規則で、曜日がよく実感できないでいる。時間感覚というフィクションは、いつまでも人間には異物感がのこるから、うっかりするとすぐにわやになる。録音では、今日ここに書いたようなことを話そうとしていたのだと思う。