漫画とアニメの差異について昨晩の録音で語り(損ね)たことで、引き続き平面上に展開された創作物について考えている。物語から空間へ、隠喩から物質へというような、観念の集合と、モノの自律的な運動とのせめぎ合いみたいなことを考えていて、いまがいいかも、といつか買おうと思いつつだらだらしていた古谷利祐の連続講義『未だ充分に尽くされていない「近代絵画」の可能性について(おさらいとみらい)』のアーカイブを見始める。のっけから面白い。いぬのせなか座の発表に基づいて、本の平面とはフィクショナルなもので、じっさい紙の本はページの綴じの関係で目には湾曲した台形として知覚されているのだが、これをフラットな表面として補正しながら読んでいくのだという指摘がある。遠近法はその黎明期からすでに複数の面=法を取り入れる余地があった、つまりそれ自体は唯一絶対の法ではなく絵画の技法のひとつに過ぎないのだという話も面白い。特異であったのは遠近法ではなく、物質をつつむ空気や描かれたものの裏側の空間を予感させるようなレオナルドの技法のほうなのではないか。主役であるピカソやマティスに辿り着く前の段階でずいぶん満足した。
きのう考えていたようなことは、このように重厚な知識に裏打ちされ洗練された形ですでに提示されているのだ。愚鈍で野暮ったいアマチュアとして、つねに誰かから(というか内面化された規範意識のようなものから)バカなやつと笑われ憤慨されなにより無視されている自覚があるが、これは加齢を待つまでもなくいつでも平気で、ただ楽しむだけのアホとして振る舞えてしまう自分に対して、恥と頼もしさの両方を抱いている。自分をどこまでこの世界へと似せていけるか、いま知らない欲望にどれだけ自分を重ね合わせて享楽できるか、そのような関心ばかりがあり、自分が徐々に拡散していくような楽しさだけが面白いのだから、他人との比較はあまり重要ではない。他人になってみたいというか、このように世界を感受してみたい、それはどのような論理によって施行されうるのだろうかと考えることが楽しい。自己を外にひらいていきたいという欲望は、しかし外部と自己の区別をなくしたい、すべてを自己のうちに吞み込みたいという欲望とほとんど同じである。「マゾヒズムとは、自己をむりやり外部へと開き、不快なものにあえて身をさらすことであるだろう」。
問題は、こうして自己を開くこと自体が、自己を拡大する営みでもあることだ。事実フロイトは、快感自我の発達以前には、より大きな、あらゆるものを含みこむ自我があったという。「もっと正確にいえば、はじめは一切を含んでいた自我が、あとになって、外界を自分の中から排除するのである。〔……〕自我と外界の結びつきが今よりも密接であった当時には、はるかに包括的な、いや一切を包括していた感情があったが、いまわれわれがもっている感情は、それがしぼんだ残りにすぎない」(フロイト 一九六九 a:四三四)。自他の分離の感覚をもつ以前の幼児は、こうして全能とすらいうべき、世界をみずからに包みこむ存在だった。現在のわれわれが微かにもっている「大洋的感情」、一切が包括され自分がそこに属しているという感覚は、ここに起源を見いだすことができる。だとすると、他者を受け入れることは、他者を吸収し、そもそも他者などいない幼年期の独我的な全能の自己へと還っていくことでもあることになる。
こうしてベルサーニも指摘するとおり、『文化への不満』の第六節は驚くべき展開をしめす。「死の欲動は〔……〕全能でありたいという当人の見果てぬ夢の実現だという点で、非常に大きいナルシシズム的快感と結びついている」(フロイト 一九六九 a:四七六─四七七)。ここで明言されているのは、他者を吸収しすべてを自己に導きいれるという運動が、まぎれもなく性的「快感」であると同時に、暴力的な「死の欲動」でもあることだ。
村山敏勝『(見えない)欲望へ向けて』(ちくま学芸文庫)
自他の境界線の融解こそが、攻撃欲動(ということはセクシュアリティ)の向かうところだったのではないか。他者がたえず自己に取りこまれ、自己がたえず拡大へと向かうなかで、自己に対する攻撃が他者に対する攻撃と区別されるためには、「自己」とは自己の支配下にあるものである、と定義するしかないだろう。自らが支配しうるものに暴力をふるうことがマゾヒズムであり、支配しえないものはそこにはない。他者への暴力がサディズムと呼ばれるのだとして、他者とは自己の外部にあるものだろうから。こうして浮上してくるマゾヒズムとは、徹底して能動的で、支配的で、超自我によってすみずみまで管理された、他者を欠いた独我的世界である。そうでなければ、サディズムとマゾヒズムは区別できない。自他との境界線が曖昧だとしたら、すでにして自己に取りこんだ他者を攻撃することはマゾヒズムなのか、サディズムなのか。そして攻撃が愛の裏面であるなら、それは同時にナルシシズムなのではないか。そしてまた、いまはまだ外部にあってこれから自己に取りこもうとしている他者に対するサディズムは、じつはマゾヒズムの予感ではないのか。要するに、無際限のマゾヒズムとはたんに無際限の暴力のことではないのか。
同書
自分が世でいちばん愚かで鈍感、ものを知らず不細工であるという気でいるのだが、それはそれとして卑屈ではなく、むしろ不遜なくらいである。社会的な評価基準に照らし合わせたときの自己採点の低さと、絶対評価として高い自己愛の同居。これはほとんどインセルの心性とされるものと重なるようでもある。過度に高めの自己評価に対して著しく低い外からの評価についても「まあこのくらいが妥当だろう」と受け容れるのは、べつに客観的であれているとか理性的だとかいうわけではなく、ただ軽く自閉的であり、他人にあまり関心がなく、外からあれこれ言われても(あるいは無視されても)あまりこたえないというだけだろう。
そしてなにより、そのような自閉が許される程度に周りからチヤホヤされてきた。たまたま「甘やかされて勝ち取ったナンバーワン」であれただけなのだが、そのナンバーワン経験によってこそ悪くない循環の中にあれている。
昨晩の録音の後、奥さんは私はもうちゃんと作品を見ることができないのかもしれないと落ち込んでいたが、『夜明けのすべて』についての感想が鮮やかで、すごい、と思った。奥さんの『夜明けのすべて』への感想を読んで、その的確さに感心し、そのうえで鮮やかにいくつもの情景が思い出され、そこに読み取られた意味を重ね、職場でべそべそ泣き出してしまった。
もう居ない人の声は500年前の光と同じで、あの二人の上司は自分だけは見失うまいと見つめてたもうない星の光が別の人にも射したのを見届けたんだっていうそこが美しくて救いだった
僕はこの文章を読んで、映画を思い出してまた泣き出してしまう。自分で自分のことを救うことはできなくても、自分にとって大切な人を救うことさえできなくても、日々を生きたその痕跡は、遠くで誰かの生を仄かに照らし出し温めるかもしれない。山添の晴れやかな顔と声は、それぞれの場所で、ふたりの遺族へといまはもうない光を幽かに反射するものになっていた。本人にその自覚はない。ただ生きているだけだ。そのかけがえのなさ。映画を見ていた時間よりも泣いている気がする。対象そのものよりも、それを見る目に興味がある。そもそもそのような目をいくつもいくつも重ねるような映画だった。僕は奥さんのようにものを見ることはできない。それでも、そのように見ることを可能にする文脈や論理を学ぶことはできる。僕ではない人の世界の見方がとてもすてきなこと。それがいつまでも面白い。
