2024.02.21

早起きして知らないわけでもない町に出かけ、親しみがないでもないのだがそれでもやはりまだよく知らない町だと思う。朝から小雨が降っていて、長靴を履いてきた。銀行だしな、と一応セットアップで決めている。愛想のいい担当の方に安心しつつ、粛々と契約を進める。お金を借りるというのは不思議なことだ。そもそも自分の行為によってなんらかの信頼が生まれ、将来を見越した投資としてお金を貸し出してもらえることがあるというのが変だ。経済というのはすべてちょっと気取って粧し込んではいるが、結局のところ粗野なギャンブルにすぎない。融資というのは実態でなく、なんかやれそう、という漠然とした期待への先払いだ。それはもはや商品として実体を伴うことらなく、商品の幻想だけが一人歩きして貨幣に化ける。この不真面目さを不真面目なまま捉えられるかどうかに、虚業で稼ぐことへの適性の有無がかかっているのだろう。実際にどうであるかよりも、なるべく長いあいだ期待を煽っていられるかだけが問われている。

マルクス的にいえば、価値はモノ自体と関係がなくて、ばらばらのモノたちがひとつの市場でやりとりされるとき、その交換の便宜のために不思議と定まっていく相場みたいなものが、事後的にそのモノ自体の価値のように錯覚されるというだけである。交換されなければ商品としての価値は定まらないで、ただそれぞれに比較不可能なほど異質なままにある。

個人の生とは市場に出回らない性質のものであり、交換可能なモノではない。個人の生は市場に居場所がないから無価値なゴミなのだということではなく、そもそも固有の生は交換可能な商品にはなり得ない。それだけのことだ。実存を経済の論理で測ろうとするから変なことになる。借金は、僕とはあまり関係がないし、僕自身とはまったく無関係である。

慣れないことをして緊張したので、寿司屋で瓶ビールを注文して自分を労う。お寿司も美味しかった。けれども、ひとりで食べると美味しいだけだ。奥さんと一緒だと、好きな人が真剣な顔でおいしさと向き合う顔を眺めることができるから楽しい。その楽しさがない。一人の時は飲むだけでいいのかもしれない。メンマとかキムチで充分楽しいのだから、それ以上は余計というか、二人の時の楽しさと比べると見劣りして、もちろん一人で行けば半額だから損ではないのだが、それでもなんとなくいつもより費用対効果がよくないような気がしてしまう。

図書館によって資料をめいいっぱい借りる。腰いわしそう、と思うほどの量。じっさい腰はいった。家に帰って単行本作業の一環として引用のエビデンスを用意していく。ひとつひとつ該当箇所と奥付を撮っていくのだが、想定以上に重労働で途中から奥さんにも手伝ってもらって三時間超かかった。ぶへえ。

ウー・ウェンの酢鶏をつくる。パセリをもりもり載せる。奥さんはもくもくと頬張っている。少し俯き加減のその目は真剣そのものだ。

柿内正午(かきない・しょうご)会社員・文筆。楽しい読み書き。著書にプルーストを毎日読んで毎日書いた日記を本にした『プルーストを読む生活』、いち会社員としての平凡な思索をまとめた『会社員の哲学』など。Podcast「ポイエティークRADIO」も毎週月曜配信中。