2024.03.05

日曜の夜にカビゴンとの約束を破るどころかポケモンたちを寝かしさえしなかったから全員疲弊しきっていてまともに木の実や食材を集めてこない。休養を与えないと生産性が壊滅的に下がるというシミュレーションを目の当たりにする思いだ。ちょうど週をまたいで島を移動するタイミングだったから、先週のデザート班の回復に一晩費やし、今週のカレー班はいまだ草臥れたままだ。夜明かしのリカバリに二晩かかる。きょうも八時に起きれたので、生活リズムはすでに正常化できている。といっても、規則正しい起床を試み始めたのが先週からなので、いつもどおりも何もないのだが。個人事業に必要な資本とは第一にフィジカルの強さであるとつねづね感じる。短期集中の無茶はできなくはないが、これを恒常的にこなすのは僕には無理だ。たまに張り切って、一日二日ちゃんと休んで、しばらくはのんびりしたペースで細々とやる、そのようなあり方がちょうどいいというか、これが目一杯だろう。

ラジオでお喋り巧者の皆様の語りを直に浴びて痛感したし、昨日の日記にもすこし書いたのだが、僕は口語のほうがより顕著に一文がうだうだ長いというか、一息でぜんぶ喋ろうとするからフィラーが増すし、決着が遅い。その原因として、そもそも最後まで自分の話を聞いてもらえないかもしれないという不安から切れ目を作ることを避けてしまうというのも大きいだろうが、もうひとつ、語尾への苦手意識というのがあるらしい。これは話すときだけで書き言葉にはない感覚だ。「思う」「考えています」「なんです」などでぴしっと語尾を〆ることに謎の恥ずかしさがある。だから「思っていて」「考えてみると」「なんですけど」などと文を切らずに接続していく傾向がある。これはポッドキャストを四年ちかくやっているくせに初めて自覚した。文章と同じように、話すときもセンテンスは短いほうが伝達可能性が高いし、なにより端正だ。これからどこかで喋る時はこの一文感覚、語尾をごまかさずきちんと締めくくることを意識して調律していきたい。そうすると、なんだかちゃんとしていそうになると思うから。そのためにも、なぜお喋りの場合しっかり一文を終わらせることが恥ずかしいのかを解明する必要がある。

たぶんそれは演劇の台本を書くとき、台詞を発するときの恥ずかしさと似ているだろう。つまり、ふだん人は一文をしっかり切ったりしないのではないか。特に、現在の東京弁は気持ちよくリズムを整えるような語尾を持っていないのではないか。落語のようなちゃきちゃきした江戸弁、あるいは関西弁が喋りの芸で映えるのは、スパッと語尾を置けるということなのではないか。自分でポッドキャストを始めるとき、ラジオっぽく喋ることへの照れから過剰にだらだら喋ることにしたが、これも語尾の問題に帰結するような気がする。普段使いの発話から見たら不自然な明快さをある程度許容すること。それはやはり大事なことかもしれない。書き言葉もまたこれだけ不自然な加工がなされていても平気なのだから。平気どころか、そうでなければ読めたものではないくらいだ。

恥ずかしげもなく整ったものへの苦手意識はなんなのだろうか。それこそ形式への照れではないか。Life でも梅棹を召喚しつつ、アウトプットの形を整えることと、書くことで考えることとの対比が提示されていたけれど、あれは要するに形式と内容の二項対立なのだ。事務とは形式の保守運用であるが、そもそもそれは内容に奉仕するものであるはずだ。しかし強固な形式はしばしば内容を抑圧する。ここに事務の厄介な面白さがある。

週末の頑張りは思ったほどダメージにはならず、達成感のほうが大きいのでEVIL とフィンレーを後楽園で観ようとNEW JAPAN CUP 初日のチケットを取る。俄かにわくわくしてきた。楽しみだ!

柿内正午(かきない・しょうご)会社員・文筆。楽しい読み書き。著書にプルーストを毎日読んで毎日書いた日記を本にした『プルーストを読む生活』、いち会社員としての平凡な思索をまとめた『会社員の哲学』など。Podcast「ポイエティークRADIO」も毎週月曜配信中。