2024.03.10

昨晩お喋りをしていて気がついたのだけれど、結婚記念日を忘れていた。もう数日で丸八年になる。下旬には奥さんの誕生日があるなあという考えに気を取られて、すっかり意識から抜け落ちていた。若いころ──といってもこの高齢化社会ではいつまでも「若い」枠に入れられがちでなかなかもう若くないという感覚にはなりづらいのだが──の僕は、下品で胡乱な言い方をするならば「恋愛脳」で、記念日の類はしっかり覚え込んでいたようにも思うのだけれど、いつの間にかあらゆる日付を忘れてしまうようになった。両親の誕生日ももう何年も連続で失念している。ある一日をスペシャルにするという発想が馴染まなくなってきているのかもしれない。毎日がスペシャルというわけでもない。ただ毎日がある。それはそこまで変わり映えはしないが、つねに違う。

午後いちばんに新橋に向かい、台湾料理を食べる。朝に磯部焼きを食べたのにぺこぺこだった。腹ごなしの後は汐留のショールームに行く。何社も渡り歩くとだんだん共通の語りの型が透けて見えてくる。はじめはなんと進歩しているものかと感心したけれど、どこに行っても似たような方向に進んでいて見分けがつかなくなる。ばらければいいのに。選ぶ方もはじめはすごいすごいと思うのだが、だんだん決め手を見失う。一生懸命同じようになろうとしているかのようだ。もっと各々ばらばらに未来を描いて欲しい。

『1976年のアントニオ猪木』は面白い評伝で、ある一人の人物に仮託される歴史というのはいい語りになる。移動中や開演待ちの時間に読んでいた。

夕方からは銀河劇場で『弱虫ペダル』の舞台を見る。インターハイ二日目の初演は、ひとつの伝説になっている。数々の名演があり、映像でしか知らない僕でさえ奇跡のような芝居であると感じた。それをいま再演すること。なぞれば届かないことはわかりきっている。かといって真新しく演じることも困難だ。過去の幻影に付き纏われながら、いまここに立ち上げる芝居としてあろうとする。その格闘に毎回感動する。オリジナルではなく、写しとして、独自の美を実現する。そのようなことは可能なのだ。2.5次元舞台という概念すら覚束ない時期に発明された技法や試みは、黎明にしかありえない熱量をもっていた。代わりに昼間のいまはノウハウの蓄積がふんだんにある。だから芝居としての丁寧さや、原作の漫画を舞台に起こす完成度はいまのほうが高い。幻のような熱さにできる限り近づきつつ、再演ゆえにどうしても至れない部分を誠実な工夫で補う。前回まではそれでも初演の映像の記憶に圧倒されてしまうシーンが多々あったが、今回は俳優たちも見違えるほど上手になっていたし、演出の過去への遠慮もある程度吹っ切れてきているようで、ほとんど目の前の芝居にだけ集中できた。千穐楽で、一日目も千穐楽だった。みんないい挨拶をしていた。

帰宅して、風呂、録音。

柿内正午(かきない・しょうご)会社員・文筆。楽しい読み書き。著書にプルーストを毎日読んで毎日書いた日記を本にした『プルーストを読む生活』、いち会社員としての平凡な思索をまとめた『会社員の哲学』など。Podcast「ポイエティークRADIO」も毎週月曜配信中。