昨晩は久しぶりに一時過ぎまで起きていて、それでも八時起きではあったのだが夕食後にぱたんと寝込んでしまった。睡眠時間が七時間を切るとてきめんに動けなくなる。とはいえこれまでは丸一日だめになっていたが、いまは夜までは元気いっぱいなのだから少しではあるがマシになっているとも言えるのかもしれない。
日中は二冊本を読んだ。新書というのは数時間で読み終えることができる設計だからするっと通読の達成感を得られるからいいし、優れたものはこんな短時間で概観できていいのだろうかというくらい充実しているからすごい。強力なフォーマットに知見がぎゅうぎゅうと詰め込まれるとき、豪華な弁当箱のようなうれしさがある。友田健太郎『自称詞〈僕〉の歴史』はまさにそのような三段くらいのお重であり、石黒圭『段落論』は一点豪華主義のミニマルなよさがあった。
僕は口でも手でも〈僕〉として自身を名指すが、友田はこの自称詞を『古事記』にまで遡って追い詰めていく。しもべを意味する〈僕〉は古代においては話者の劣位を示す徴であった。日本語の自称詞は明確に他者との関係を顕わにする機能をもっている。ところで、相手の優位を表す〈貴様〉や〈御前〉といった言葉がもっている敬意は時間経過とともに逓減していく。他称の語彙から敬意が減るに従って〈僕〉の地位は相対的に上昇し、フラットな性格を帯びてくる。長い潜伏期を経て、江戸後期に顕在化するとき〈僕〉は、知を探求する〈君〉と〈僕〉のホモソーシャルへの帰属を明かしたてるものとなっていた。勉強を介して実現される、女性を排除しながらも当時としてはラディカルな平等志向。そのような〈僕〉遣いの象徴的な人物がいた。吉田松陰である。かれの文書や周囲の人間関係から、当時の身分制を解体する一因としてこの些細な自称詞を炙り出していく。そして、欧米においてはほとんど無色透明である代名詞がわざわざ自称詞として取り上げられる意義もここにある。自称詞はつねに社会性を帯び、個人の位置を世に問う機能をもつ。このようなポテンシャルを秘めた自称詞〈僕〉がほとんど男性に独占されていたこと、あるいは、そもそも女性の自称詞のバリエーション自体が乏しいことに注意を促して本書は終わる。面白かった。僕はおそらく欺瞞を飲み込んで〈僕〉を使用し続けるだろうし、〈君〉と〈僕〉の関係が万人に開かれていくような方向をこそ望みたいが、おそらく僕はこの自称詞の醸し出す鼻持ちならないスノビズムをこそ愛しているのだろうとも自覚してしまった。
石黒はとにかく段落というものは大事であるとだけ言っているのだが、これは存外根深い話で、日本語というものの厄介さを捉えている。書き読むことを情報の引っ越しになぞらえ、段落を情報を詰め込む箱としてイメージするように促す本書は、逆説的に日本語とパラグラフ・ライティングが馴染まないことを顕わにしてしまってもいる。石黒は書くという行為について記述する際、「構え」と「流れ」という二項の緊張関係を取り上げる。「構え」とは構造のことであり、段落というブロックを積み上げて構成される論理的な文章という石黒の理想を表している。これに対して「流れ」とはディティールによって牽引される逸脱であり、文脈によって制御から逃れてしまう勢いである。「流れ」はつねに「構え」を脅かし、「構え」はつねに「流れ」を抑圧する。段落を擁護する石黒は、本書においては「構え」に肩入れするわけだが、こんな日記を書いている僕は「流れ」にこそ味方したくなる。というか、読んでいて気がついたのだが僕はおそらく「構え」に敏感であり、本も構造で読む。つまり気質としては「構え」が強いからこそ、意識的に「流れ」の側に重心を傾けようとする。しかし石黒が鋭敏に察知しているように、そもそも日本語というものは性質として「流れ」に寄りかかりがちな言語であり、「構え」こそ強く意識しないでいては維持できないものである。国語学者の林四郎の指摘が面白い。曰く、英語のパラグラフ・ライティングはトピック・センテンスを太らせていくという書き方であるが、日本語における段落は長い文章を読みやすい形に区切っていくという書き方なのだ。これは「構え」が先だちそこに中身を「流し」こんでいくという態度と、「流れ」が先にありそれを分節していくことで理路の「構え」を事後的に見出していくという態度との対比である。
前者はDynalist のようなアウトライナーとの相性がよくて、『会社員の哲学』はまさに箇条書きにされたトピックにあとから肉付けしていくという形で書かれた。対してこの日記は原則として後戻りしない、とにかく頭から書いていって一日が終わるところで止める、振り返って前の文書につけ足したりはしないというのを決めて書かれている。だから「流れ」に乗りきらなかったものはあっさりと棄てられる。それを惜しんでしまうと無限の書き直しに嵌まり込むからこそ日記は速さが何よりも優先される。僕の日記は記録ではなく、日々行われる一発録音おようなものである。きのうから始めた声日記は、五分という段落を明確に設けているが、これもまた一発録りであり、編集は面倒なのでしない。しかし、おそらく五分という制限は、僕なりに「構え」を練習したいという欲望の徴な気がしてならない。
こうして書いていくと、そりゃいつもより寝てなくてこんだけ頭を働かせたら早く寝るほかないよという納得がある。