セーターの上に何も羽織らずに出たら寒かった。昨日との温度差は五度くらいあるだろうか。この時期は服をまちがえる。電車のなかの皆はなにか上着を着こんでいる。僕だけが間違える。「皆」というのは面白い。それは自分以外のすべてという意味だ。僕は昔から「皆と友達になりたい」と「皆のことうっすら気持ち悪いと思うしけっこう嫌いだな」のあいだを往還するような気分を持っているが、これは自己と他者との間にグラデーションが乏しく、自分と「皆」のあいだにあるはずの具体的な人間関係を捉えきれていないことによるものであろう。じっさいは「皆」とは他者全般ではなく、複数ある。会社、近所、学校、趣味の界隈など、ある共同体を構成するメンバーが醸し出す均質性のことを「皆」と呼ぶ。なのでまず僕が「皆」への好悪の判断をするとき、それはあるコミュニティとの相性の合う合わないを考えている。しかしあるコミュニティが持つ同質性のようなものは抑圧的な性格であるとは限らず、そこに馴染まない個性が滲み出る余白のようなものがあることも多い。このような滲みにおいて交流する人物は、おそらく「皆」ではくくれず、かといって「自分ら」の側に引き寄せるには親密さの薄い他人であり、じつはすべての他人とはこのようなものである。「皆」でもなければ、親しい「自分ら」でもない、もちろん「自分ら」を脅かす敵でもないような中間領域。そこにいる大半の他人とうまくやっていくことが課題なのであり、漠然とした「皆」を操作しようにもそこに実体はない。個人とはつねに個別具体的なものである。そんなことは当然のことで、そのうえで情報処理の負荷を軽減するためにコミュニティごとの質を均すためのコードがあり、共同のためにそのような規範をいったん採用することで「皆」を立ち上げるのである。共同体のコードとは共同性を担保するものである。振る舞いや言動に課せられるドレスコードのようなものだ。ほんらい着脱可能なのである。そのような仮面や服装に過ぎないコードを、先天的で排他性をもつものとして錯覚するのがナショナリズムやレイシズムである。あるいは、着脱可能なフィクションのほうに信を賭けてしまうフェティシズム、信の対象を実存と取り違える倒錯のことをそう呼ぶのかもしれない。ひとはしばしば自身の演技を実存と信じ込んでしまう。内面というものが、言語によってしか成立せず練り上げることもできないモノであるにも関わらず、なにか言葉では言い尽くせない深みのあるもののように感じられてしまうのと似ている。その錯覚は錯覚に過ぎず、偽なのだが、しかしそのような誤った信念なしに生活することは可能だろうか。言葉を覚えてしまったからには、なにか日々の生活を支えるに足る強度のある信をフィクショナルに作り上げていくしかないのではないか。
お昼は麺かドーナツを食べたくて、それはミスタードーナツ一択ということではないかと思われたが、蕎麦屋に入ったら満腹でドーナツは食べそびれた。夜遅くまで働いてくたびれた。こういう日、帰ったら好きな人に会えるというのが嬉しい。嬉しくてはしゃいでいたら心配された。ミルクティーを飲んだ。
