2024.04.06

『センスの哲学』を読んでこれはほとんど『自炊者になるための26週』だなと思う。

千葉雅也の一般向けの本はどれもいわゆる「わかりみ」がありすぎて、読む前と後で何も変わらないというか、そうかこうやってプレゼンすればマスにリーチするのか、という感心が先立つ。我が意を得たりと膝を打つような、言語化の補助や代行を任せてしまったというようなことでもなく、ただ、そうよねーとなる。これはすごい技術だ。書く際に選択された適度な目の粗さが、日々の考え事のいい加減な塩梅とフィットするということなのだろう。感覚的な話をあるていどラフに済ます、その飛躍の具合に気がつかないというか、丁寧なブリッジも、大胆なジャンプも、ふだんの自分の思考の歩幅に馴染みすぎてそれと気が付かない。多くの人にとって理屈ではなく感覚で腑に落ちることを、適度に粗い理路を明快に示すことで気分よく読ませる技術に長けている。しかも、ちょっとだけ理屈っぽさも残すことで、感覚ではわかっていた(つもりの)ことを、知的権威に裏づけてもらったような気持ちにもなる。新刊が楽しみだったのは、不特定多数との共通の感覚をつかみ、言葉を届けることに長けた著者がセンスについて書くというので、ありふれているからこそ言葉にするのが難しい諸感覚を平明な言語に成形する手つきのヒントがあるのではと期待したからだった。けれども今回は、これまでの本以上に、ある価値観をもとから共有できている人向けの書きっぷりというか、それこそ直感的にわかる人にはわかる話になってしまっているようにも感じた。

直観のするどさを先天的なものとせずに、開発可能なものとして教育的態度で書くというのはかなり難しいはずで、これは先に書いた三浦の本のほうが成功しているかもしれない。まだ読み途中だけれど、読んだところから引くと、

葉のところを切り落とし、丸ごと蒸し器に入れて蒸します。旬のかぶはとても甘く、こまやかな繊維質の身が詰まっています。蒸したかぶには、大根とも、ほかのどの野菜ともちがう、独特の食感があり、しっかり蒸すと熟れかけた柿のようなやわらかさになります。

あえてやや大げさなかんじで、そのまま白いうつわに乗せ、ナイフとフォークでいただいてみてください。塩、オリーヴオイル、ヴィネガーがあればじゅうぶん。オリーヴオイルの黄金色とかぶの乳白色は、見た目にもうつくしい組み合わせです。食べると、少し大人っぽい青臭さを感じます。それが混じっているから、よけいに清純なミルキーさが引き立ちます。(・・)

三浦哲哉『自炊者になるための26週』(朝日出版社) p.84-85

素朴な書き方だけれど、これだけでとびきりおいしそうだし、味覚がひらかれていく感じもある。映画の批評という著者の職業を知っていると、それこそあるものを享楽するセンスというのは分野や五感を横断するように拡張されうるということを実践的に示しているともいえる。

小ぶりな里いも(通称・衣かつぎ)も、手軽にできる蒸しものですが、とてもおいしいです。加熱されると、ぷっくりと膨らんできて、粘りを含んだジュースが、茶色の皮の隙間からほんの少しじゅわっと漏れ出してきます。そのとき、キッチン全体に香ばしい土のにおいが充満しているはずです。(…)

同書 p.85

これなんかもいい。文字で書かれることで、かぶも里いももそこはかとなくエロくなる。カメラという光学装置によって、視覚にだけ縮減された人体が直接まなざすよりも官能的に立ち上がりうる映画の不思議と似た、触れ合うことのできない間接性が喚起する肉体的衝動の強さ。

千葉は餃子を多重録音の音楽に喩えて描写する。それは楽しいし、味覚から鑑賞の質をひろげていくというアプローチの狙いもわかるのだけれど、遠くの事象同士をレイヤードすることでどちらの気持ちよさもぼやけてしまうような印象を持った。それだったら蒸したかぶや里いもを直接ただ描写した方が伝わるのではないか。なにかに喩えず、それらに接する感覚器官の快楽を精密に描写する、そのようなアプローチのほうが。それは大きく参照されていた保坂和志の小説群にも通じるスタンスである。

とはいえ、しっかり餃子を食べたくなったのでナントカ餃子みたいな中華料理屋に入ったら、ランチは餃子やってないとのこと。がっくし。

柿内正午(かきない・しょうご)会社員・文筆。楽しい読み書き。著書にプルーストを毎日読んで毎日書いた日記を本にした『プルーストを読む生活』、いち会社員としての平凡な思索をまとめた『会社員の哲学』など。Podcast「ポイエティークRADIO」も毎週月曜配信中。