2024.04.08

きのうはなんだかんだで夜更かししてしまって眠かった。朝は八時に目が覚めるようになっているのだが、そのぶん睡眠不足が嵩む。七時間を切ってしまうとだめなのだ。きのうの歩数は17,687歩だった。昼寝をしたら二時間経っていた。いつの間にか奥さんが応対してくれていて、『群像』は郵便受けに入らずインターホンが鳴らされたようだった。夕方買い物に出ると郵便受けに『新潮』、『文學界』、『すばる』が届いていた。トマトや鰹節、しめじと塩サバを買う。しめじで味噌汁を、トマトで和え物をつくり、鯖を焼いた。『文藝』から読んでいる。僕は小説の面白さがわからないのかも知れない。とにかくプロットで読ませるものが苦手だ。この先どんな展開が待っているのだろうという好奇心で読まされるのが苦痛だ。ただ次にどんな一文がやってくるかわからない、というような驚きにわくわくしていたい。話の筋を取り出しても仕方がない。それは音楽を聴かずに歌詞カードだけで楽しむようなことだから。小説を読むのであれば一文一文を吟味するものだし、要約を寄せ付けないディティールに惹きつけられるのが楽しいのである。時評に書くという前提で読むとこのような気分が際立つ。というか、時評に書きやすそうだなと思うような小説は総じてつまらなく思えてくる。それらしい評論を書くのなんて簡単で、書きやすいような小説はあらすじを上手に抽出してその構造が選択された意味を絵解きするだけでずいぶん面白くなる。なんなら説明の方が面白くなるようなことも多い。それなら説明だけ読めばいいのだから小説は不要だ。あるいは、小説は実在しない小説の批評のようなものとして書かれた方がずっといい。じっさい僕は小説よりも批評のほうを好んで読んでしまう。書かれていること自体の面白さでいったら人文書のほうがずっと面白い。小説に分があるとするならば、それは書き方それ自体、言語という素材自体に対する徹底的な懐疑にこそありうる。あらすじと今日的意義だけを並べるだけで何か言った気になれて、読んだ方もなるほど今はこういう時代なんだなと一定の納得ができるような評を誘惑するような小説は面白くない。そんな、そこそこ賢しければ誰でも書けるような評を書いても楽しくない。こちらに媚びないでいただきたい。なんなんだこれは、と絶句するようなものを読みたくてしかたがない。そうしたものと格闘して捻り出す不細工な評をこそ書かせてほしい。だから、見え透いたものに感じられるとぶすっとむくれてしまう。言葉で作るものだからこそ、安易に別の言葉に変換できるような単純なものであってほしくない。僕が小説に求めているものというのがだんだんと明確になっていくようで、夕食を食べながら奥さんにこのようなことを話してみると、あなたはいっつも同じようなことを話しているね、と応えが返ってくる。何も変わってない。それはそれでがっかりする。

柿内正午(かきない・しょうご)会社員・文筆。楽しい読み書き。著書にプルーストを毎日読んで毎日書いた日記を本にした『プルーストを読む生活』、いち会社員としての平凡な思索をまとめた『会社員の哲学』など。Podcast「ポイエティークRADIO」も毎週月曜配信中。