2024.04.12

鼻のかみ過ぎだろうか。耳の奥から異音がする。頭を動かすたびに、ブツッ、ブツッと鳴る。垢が鼓膜に張り付いてしまったのかもしれない。耳鼻科に行くのが面倒だな、と思う。そもそも起きたら動き出さねばならないのが面倒で目が覚めても体を縦にすることすら億劫である。今月の文芸誌には小説が充実していて、百枚を超えるものも沢山ある。などと書いたが、ぶっちゃけ原稿用紙換算の枚数はよくわからない。二段組で五十頁を超えるときついなと思い始める。ただ、ものによるというか読みやすいものは何枚であれすぐ読めてしまう。とにかく、連載や連作は体力的な都合で割愛にするにしても、独立さえしていれば短編もきちんと目を通すようにしているから、ぜんぶで二十五作以上ある。期日までに読み終えるかどうかさえ不安になる量である。そのうえ、質としても読みでがあって面倒そうな作品が多い。勘弁してくれ、と感じるが、これはどこか嬉しそうでもあって、僕は小説は読みにくいほうがいいというと語弊があるが、読み手の側に日常と違う言語感覚をイチから組み立てることを要請する、そのような負担を強いてこないような文字列は小説として面白くないというか腑抜けているとさえ思う。文字の配列や語の運用、そのふだんづかいの原理原則を疑わしいもののように感じさせるような表現であってこそ、商業的な効率という面でも、技術的な未開拓地の残余という意味でもだいぶ心許ない現代の状況下で、わざわざ小説のような形態を選択することが妥当でありうる微かなスペースが空いていると考えている。だから、これは一体どういうつもりなんだと辟易としながらも、どうにも体が先に響かされているような表現に出くわすとわくわくするし、なんとかこれを秩序だったもの、説明可能な順列へと馴致してやりたいという後ろ暗い欲望がもたげる。このような保守性が評するという行為にはある。ただし作品内に潜む秩序を解き明かしたいというその一見して体制順応的な欲望は、作品に内在する機序を忠実になぞらんとするあまり、むしろ当初その制作において意図されていた以上のラディカルな運動を描き出してしまいかねないところがあり、僕はそのような崩壊の感覚をこそ待望しているような気がする。

昼には雨が降ったり、気圧の上下がきつかった。何度も気絶しそうな眠気に襲われる。きのうは蕎麦が食べたかったんだよなと思い蕎麦屋に入るが、酔っ払いながら帰宅してそのまま蕎麦を茹でて月見にして食べたことを思い出す。『文藝』と『すばる』を持ってきたからリュックが重たくてさすがに腰にくる。通勤の往復と昼休憩でそんなに読めるわけでもないのに。つい多めに持ってきてしまう。なんにもうまくいきそうにない。そんな日だ。

へとへとで帰宅。ご飯の後に数十分だけ横になって、すこし元気になってベッドの上でごろごろして『ハズビン・ホテル』を観るなどして遊んだ。チンコマスターはじめ誰もチャーリーの話をまともに聞いてくれないのでしょんぼりしてしまった。ちゃんと話をきいてよ!

柿内正午(かきない・しょうご)会社員・文筆。楽しい読み書き。著書にプルーストを毎日読んで毎日書いた日記を本にした『プルーストを読む生活』、いち会社員としての平凡な思索をまとめた『会社員の哲学』など。Podcast「ポイエティークRADIO」も毎週月曜配信中。