きょうは『文學界』を持って電車。これまではこの時期には各誌の掲載作を一回は読んでメモを作り終えてるくらいの日付な気がするのだけれど、噓かもしれない。先月は量も質もそこまで大したことがなかったからするする終わって、その印象に引っ張られているのかもしれない。今月は充実だ。そもそも季刊の『文藝』がある。『文藝』は春も夏も特集がちょっとダサいなと感じた。あとたぶん家でひとりで集中して読める日にちがほとんどないのも焦る理由だろう。文字通り通勤電車で読むほかない。年度が改まったことで、面識のある兼業作家の方々の何人かが人事異動で激務に投入されどんどん削られていく様をSNS 上でほんのりと感知していて、つらいな、と感じる。責任を国家に対して持とうとするんじゃないよ、どうせなら地球に対して負っていこうぜ。ジミ・ヘンドリクスがそんなことを言ったとか言っているとされているが実際には言ってないとかいうのをどこかで見聞きしたはずだが、たかだか賃労働者に完遂すべき責任なんかあるはずもなく、いい文章を書ける人は仕事をサボって文章を書くほうがよっぽど責任のある行為であると思う。会社は社会じゃないし、社会も生活じゃない。社会も会社もお金も個人の生活をよりよいものにするための道具でしかない。その道具が生活より優位に立つというか、生活を支えるものであるそれらを維持するためにつまりは生活を守るために道具の側に生活を差し出すような転倒が起きがちであるのがいつまでもどうにも納得できない。
さらに厄介なのは、労働というのはどこか楽しげなものであり、油断するとちゃんとしてしまいたくなるというところだ。自己というものの充足感を、労働は備給してくれたりもする。しかし、そのような充足感に、まったく関心や満足をもてない僕のような者もいるということを手放さないでいたい。いや、手放せるのであれば僕は毎日が輝きだし富貴になりギラギラして楽しいのかもしれない。でも、それは無理! そのような話を来週末の機械書房での読書会では話せたらいいなと思うが、参加者の感じで内容はずいぶん変わるだろう。その場で平気で路線変更できる程度に準備をし、いくつもの分岐を予感しながら注意を散らしておくのが大事。
労働、文芸時評、ZINE、家のこと、遊び、複数の企画が並走していると、単純なタスクそれぞれの軽重よりも、各プロジェクトに集中するためのモードの切り替えにこそ難儀する。さっきまで文芸のことを考えて小説を精読していたのに、すぐさま夕飯の献立や、別の本のことをまともに検討することなどできない。ひとつひとつの制作や用事にこちらの心身を最適化させる、フィットする状態を練り上げる。その助走のタイムラグがもどかしくなってくると、疲れているな、とわかる。先日ひとに、疲れてます、追い詰められてます、と愚痴ったらその口調が自分でも驚くほど悲壮感をたたえており、その声で改めて自身の疲弊を実感した。その夜は寝込んだ。
きょうはがんばった。文芸誌を読んで、労働して、文芸誌を読んで、夜遅くまでリフォームの打ち合わせで判断を連発した。途中で倒れずに済んだのは、『文學界』掲載作がどれも面白いおかげだ。いい小説を読むと元気が湧いてくる。それがどれだけ露悪的であろうとも。『オフィーリア23号』がとてもいいと思った。たぶんなんだけど、この作家は芥川賞とか取るんじゃないか?
