(…)引っ越しによって、家は存在しないということが実証される。存在するのは、家づくりであり、物と人とが互いを飼いならすこと〔家化すること〕という、とても長期にわたる駆け引きである。家は、わたしたちが暮らす世界に適応するためにわたしたち自身を飼いならすことにほかならないし、それは反対に、わたしたちの身体構造やイメージと、混同されかねないほどわたしたちがまとう一つの衣服、衣装のようになるまで、世界を飼いならすことにほかならない。
エマヌエーレ・コッチャ『家の哲学』松葉類訳(勁草書房) p.20
ようやく本を読む心のゆとりを取り戻してきた。家に住むこと、「私」を成立させる世界との関係をレイアウトし続けること。それは規律訓練のような馴致というよりも、読み、書き、書くことで再び文字としてモノ化したものを書き直す、そのような営みに似ている。自らを外と分つ膜を設定する。服を纏い、家に住むヒトはすでに自身の肉体を超えてあらゆるモノを自らの延長や補助具として同化させるサイボーグなのだ。
話は変わって、トランプの銃撃の映像は、たまたまBBC のサイトを眺めていたら出会した。日本語に訳されるよりも早い段階で、無事を確信した直後に腕を高々と掲げる様に暗澹たる気持ちになった。これは、あまりにすごすぎる。咄嗟の判断で、ここまで完璧なシーンをつくりあげてしまえるとは。『20世紀少年』のともだちの復活のような寒々しい熱狂の完成を見た気持ち。じっさい、その後の展開はそのとおりになったし、優れた構図の報道写真まで現れてしまった。この写真に無防備に「感動」する大勢の人々のようすに東條さんがそっと警鐘を鳴らした直後のツイートに頷く。
集団的興奮に飲み込まれてそれと同調できるのは快楽なんですよね。それは分かるものの同時にそういうのと距離を置きたい気持ちもある。
https://x.com/inthewall81/status/1812832175030681967
作画バリバリにリッチなアニメをあんまり強く褒めたくない気持ちもわりと同じところから出てる気がする。
https://x.com/inthewall81/status/1812833714952642834
そう、「作画バリバリにリッチなアニメをあんまり強く褒め」ない態度。それが大事なのだ。集団の熱狂からは距離を取り、大半の人から鼻で笑われるようなことをこっそりと、しかし知力を湯水のように投入して耽溺する。少年期にインターネット越しに背中を眺めていたオタクっぽくて楽しそうな大人とはそういうものであったし、成熟とはこれだと学び取っていた。
玄関に置きっぱなしだったトランクケースの中から、目覚まし時計とリモコンが発見された。あったよ。こんなところに。そういえばベット周りのものらは最後の最後にぱっと詰め込んだような気もする。ずっと目についていたのに不思議と中をあらためようとはしなかった。